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藤原実資(ふじわらのさねすけ)は、参議・藤原斉敏の四男。 母は、藤原尹文の娘。 957年(天徳元年)誕生。 祖父の藤原実頼の養子となり、豊富な財産と儀礼を継ぐ。 藤原道長の権勢の中でも筋を貫き、簡単には言いなりにならなかったことから「賢人右府」と呼ばれた。 円融天皇・花山天皇・一条天皇の蔵人頭を務め、989年(永祚元年)、参議となり公卿に列する。 |
藤原忠平 |
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円融院の子日の御遊と円融院葬送の歌~藤原朝光・藤原行成・藤原実方~ |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ |
999年(長保元年)、藤原道長は、長女・彰子が一条天皇に入内する際、屏風を新調して和歌を募った。 藤原公任・藤原斉信・源俊賢などが和歌を献じ、書は藤原行成が絵は飛鳥部常則が担当したが・・・ 実資は「大臣の命で歌を作るなど前代未聞」として拒んだのだという。 1011年(寛弘8年)、三条天皇が即位。 三条天皇には女御として藤原済時の長女・娍子と道長の次女・妍子とがいた。 翌年、道長は妍子を中宮とする。 これに対し、道長と仲が悪かったという三条天皇は、娍子を皇后宮とした。 娍子の立后の儀式の日・・・ 道長は「同日は中宮妍子の参内の日である」として出席せず、多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に集まってしまう。 この日、病身だったという実資は「一国に二人の君主があってはならない 」として参内するが、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原隆家・藤原懐平のみだったのだとか。 1016年(長和5年)、眼病を患い、道長からも譲位を迫られた三条天皇は・・・ 娍子が産んだ敦明親王を東宮とすることを条件に後一条天皇に譲位。 しかし、翌年、三条天皇が崩御すると、敦明親王は道長の圧力を受けて皇太子を辞退している。 |
999年(長保元年)8月9日、一条天皇の中宮・藤原定子は出産のため平惟仲の弟・生昌の屋敷に行啓するのだが・・・ この日、道長は藤原道綱や藤原斉信などと宇治遊覧に出かけ、その晩は宇治殿に宿泊し、定子の行啓には不参となった。 道長の行動により、宇治に従わなかった公卿らも不参を表明。 実資は、行啓を妨害する行為だと強く批判している。 |
藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 藤原定子の懐妊と藤原道長の宇治遊覧 |
1019年(寛仁3年)、古代日本最大の外敵侵略だったという刀伊の入寇は、実資と交流のあったという藤原隆家らの活躍によって撃退されるが・・・ 藤原公任と藤原行成は、勅符が届く前に戦闘が開始された私闘であるので、恩賞を与えるべきでないと主張。 それに対して、実資は894年(寛平6年)の新羅の入寇の際の恩賞を例をあげて、その考えを改めさせたのだという。 |
刀伊の入寇~日本国を守った藤原隆家~ 刀伊の入寇の恩賞と武士の台頭 |
道長に対し、毅然として反論してきた実資は・・・ 1021年(治安元年)に右大臣となり、1046年(永承元年)1月18日に90歳で薨去するまで在任。 約25年にわたって政界ナンバー2の地位に在り続けた。 道長にとって、正面立って逆らわない実資は、利用しがいのある人物だった。 道長の嫡男・頼通は実資への敬意を怠らなかったのだという。 実資も道長の能力を高く評価し、頼通には好意をもって接していたらしい。 道長が娘の威子が中宮となった時に詠んだという 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 この歌は、実資の『小右記』から伝えられたもの。 |
望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌 |
清水寺を信仰していた実資は毎月18日に参詣し、それ以外にも娘に参詣させていたのだという。 |
長谷寺に女児の誕生を祈願し、霊夢をみたのだという。 |
六角堂(頂法寺)には60回を超える参拝をしたのだという。 |
藤原実資の観音信仰と二人の娘~清水寺・長谷寺・石山寺・六角堂~ 清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
1008年(寛弘5年)11月1日、藤原道長の土御門邸では一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)の「五十日の祝い」が行われた。 『紫式部日記』によると、実資は柱に寄り掛かって女房の衣の褄や袖口を数えていたのだという。 紫式部が誰であるかわからないと思って声をかけてみると、今風ではなく、しっかりとした信念を持った立派な人だったのだとか。 1012年(長和元年)、藤原彰子が皇太后になると、実資は頻繁に彰子を訪問するが、その取次役だったのが紫式部だった。 |
藤原彰子と藤原実資を取次役を務めた紫式部 |
道長から賀の歌を求められる紫式部(越前市・紫きぶ七橋) |
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