藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 |
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995年(長徳元年)4月10日、一条天皇の中宮・藤原定子の父で関白の藤原道隆が薨去。 道隆の弟の道兼が関白となるが、5月8日には道兼も薨去。 道隆に仕えていた平惟仲は、道隆一族の中関白家が衰えることを見越して、道隆の嫡男・伊周(定子の兄)ではなく、道隆の末弟・道長に接近。 伊周は、関白をめぐって叔父の道長と争うが、5月11日、一条天皇は道長に内覧の宣旨を下し、6月19日には伊周の上位となる右大臣に任命している。 これは、一条天皇の生母で道隆や道兼に不満を持っていた藤原詮子が道長を推したためといわれている。 翌年には、伊周は弟の隆家とともに長徳の変を起こして失脚。 伊周・定子・隆家の母・高階貴子は病に伏して病死。 懐妊中だった定子は、里第の二条宮に退出して出家している。 |
出家した定子は、996年(長徳2年)12月16日、脩子内親王を出産。 この年の夏に二条宮が焼失してしまったことから、三条高倉にあった平惟仲の邸宅に行啓したのだという。 997年(長徳3年)、詮子の病気快復の大赦で伊周と隆家は罪を赦されて帰洛、定子も宮中に戻っている。 999年(長保元年)11月19日、定子は敦康親王を出産するが、この時は惟仲の弟で中宮職の大進だった生昌の屋敷に行啓。 藤原実資の『小右記』によると、行啓の日の8月9日、道長は宇治遊覧に出かけていたらしい。 さらに実資は、生昌邸の門は定子の輿が入るようなものではなかったことを記している。 それでも何とか定子の輿は修造された門を入ることができらしい。 しかし、女房たちの車は・・・ 定子に仕えていた清少納言の『枕草子』によると・・・ 清少納言らが乗った女房たちの車は門を入ることができず、皆歩いて入ることになったらしい。 そして、生昌は清少納言に物笑いの種にされてしまうが、清少納言は生昌の兄惟仲が中関白家を見限ったことに憤りを覚えていたのだという。 |
平等院は、藤原道長が所有した別荘「宇治殿」が始まり。 定子が生昌邸に行啓する日、道長は藤原道綱や藤原斉信など多くの人々を引き連れて宇治遊覧を行い、その晩は宇治殿に泊まるため「行啓には不参」という態度を示した。 道長の行動により、宇治に従わなかった公卿らも不参を表明。 藤原実資は、行啓を妨害する行為だと強く批判している。 藤原行成は、一条天皇に道長らの不参を報告したようだが、一条天皇は行啓を延期することはなかった。 |
1000年(長保2年)12月15日、定子は媄子内親王を出産。 出産した場所は惟仲邸だったとされている。 一条天皇の生母・藤原詮子の勧めがあったらしい。 しかし、翌日に崩御。 葬儀を取り仕切ったのは、定子の父・道隆に仕えていた惟仲だったのだという。 |
鳥戸野陵は、藤原定子の陵墓。 藤原行成の『権記』によると、遺体は六波羅蜜寺に安置された後、27日、鳥戸野(鳥辺野)へ葬送された。 本人の希望により土葬とされたのだという。 翌年閏12月22日に崩御した藤原詮子は、ここで荼毘に付され、宇治陵に葬られている。 |
藤原詮子の晩年 ~平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御~ |
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