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藤原行成の『権記』によると、晩年の藤原詮子は、平惟仲の屋敷を御所としていた。 それは、それまで御所としていた東三条殿が、1000年(長保2年)12月15日に焼亡?したことによるものらしい。 参考までに、この日は藤原定子が一条天皇の第二皇女・媄子内親王を出産した日。 定子の出産も惟仲邸だったといわれ、詮子が勧めがあったのだという(定子は翌日崩御)。 |
東三条殿(東三条院)は、藤原兼家の邸宅。 詮子は、ここで一条天皇を出産。 兼家の死後は、嫡男・道隆に継承され、道隆の長女・定子は東三条殿から一条天皇に入内している。 |
その後、詮子は・・・ 12月23日、土御門殿から一条院へ遷御。 1001年(長保3年)2月10日、三条院(惟仲邸)へ遷御。 3月23日、方違えで土御門殿へ(翌日、惟仲邸還御)。 8月20日、慈徳寺行啓。 10月8日、四十賀(40歳の祝い)のため土御門殿へ渡御、10月10日、惟仲邸に還御。 四十賀は10月9日に行われ一条天皇が行幸している。 10月27日、石山寺参詣(石山詣)。 11月2日、触穢のため東院(花山院)へ遷御。 12月13日、土御門殿へ遷御し、翌日、父兼家が創建した法興院常行堂で不断念仏。 12月16日、惟仲邸に還御。 閏12月9日、病に伏す。 閏12月16日、一条天皇が行幸、一条天皇が還御後に剃髪。 一条天皇の行幸後、弟の道長は詮子を惟仲邸から行成邸に遷すことを決めるが・・・ 閏12月17日、陰陽師の占いにより、行成邸への渡御は翌日となった。 そして・・ 閏12月22日、行成邸で崩御。 |
東三条院競馬~藤原道長の私的開催と藤原詮子~ |
一条院 |
土御門殿 |
一条院は、詮子に献上された邸宅。 一条天皇の里内裏として使用され、一条天皇はここで崩御している。 土御門殿は、藤原道長の邸宅。 一条天皇の中宮・藤原彰子は、ここで後一条天皇と後朱雀天皇を出産。 |
元慶寺の隣接地にある華山寺は、慈徳寺の旧跡といわれる。 |
『扶桑略記』や『愚管抄』によると、花山天皇が出家した986年( 寛和2年)の寛和の変には、厳久という僧も大きく関わった。 厳久は、詮子に従属していた僧で、詮子が慈徳寺を行啓したことで別当となっている。 |
寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは? |
石山寺は、藤原兼家・藤原道長などの貴族が参詣。 そのため、平安時代には石山詣が盛んに行われた。 紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺ともいわれ、藤原道綱母・清少納言・和泉式部・赤染衛門・菅原孝標女なども参詣している。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
花山院 |
法雲寺 |
花山院は、花山天皇の退位後の御所。 法雲寺は、藤原兼家が建てた法興院跡に寺院。 |
鳥戸野陵は、藤原定子の陵墓。 1001年(長保3年)閏12月22日、藤原行成の屋敷で崩御した詮子は、ここで荼毘に付され、宇治陵に葬られた。 |
宇治陵は、関白・藤原基経が定めた藤原北家一門の埋骨地。 藤原道長は浄妙寺を建立したが、室町時代に廃絶し、詮子や道長・彰子の埋葬地も不明となっている。 |
「雲の上の もの思ふ春は 墨染に 霞む空さへ あはれなるかな」 これは、詮子が崩御した翌年、宮中から紫式部に贈られた歌。 詮子が崩御した年、紫式部は夫の藤原宣孝を亡くしている。 紫式部の返歌は、 「なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ 霞の衣 なべて着る世に」 |
紫式部の歌~藤原詮子と藤原宣孝の死を悲しむ歌~ |
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