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寛和の変は藤原兼家が起こした政変だが・・・ 真の黒幕は藤原詮子という噂が・・・ 寛和の変に直接関与したのは、兼家の長男道隆・次男道綱・三男道兼、そして、僧の厳久。 平安時代の歴史書『扶桑略記』によると・・・ 道兼と厳久が花山天皇を大内裏から退出させ、同時に道綱が神璽と宝剣を東宮(懐仁親王)に渡し、兼家が参内して諸門を固めさせて践祚(皇位につくこと)を強行している。 慈円の『愚管抄』によると・・・ 道兼と厳久が縫殿寮から花山天皇を退出させ、急な事にためらう花山天皇に神璽と宝剣が東宮へ渡っていることを告げ、 道隆と道綱が神璽と宝剣を東宮の擬花舎に運び、兼家が参内して諸門を固めさせ、 五男道長を関白藤原頼忠のもとに遣わして政変の成就を伝えたのだという。 |
※ | 『大鏡』によると、神璽と宝剣を持ち出したのは道兼。 |
(参考) 大鏡が伝える寛和の変~藤原道兼に騙された花山天皇~ |
『栄花物語』によると、厳久は、寵愛する藤原忯子を亡くして悲嘆にくれる花山天皇に出家を勧めた僧なのだという。 そして、兼家の次女で懐仁親王を生んだ詮子に従属し、詮子が創建した慈徳寺の最初の阿闍梨なのだという。 慈徳寺は、花山天皇が出家した元慶寺の近くにあった寺院で、寛和の変が起こった986年(永延元年)の創建といわれている。 翌年、厳久は慈徳寺の最初の阿闍梨となり、藤原実資の『小右記』によると、同年、兼家の法華八講の講師となっている。 991年(正暦2年)9月には、詮子の出家に奉仕。 藤原行成の『権記』によると、995年(長徳元年)、詮子の推薦で権律師となり、1001年(長保4年)8月、詮子の慈徳寺行啓に伴なって座主となった。 同年12月の詮子の周忌法要の講師、1004年(寛弘元年)5月に道長が催した詮子のための法華八講の講師も勤めている。 こうしたことから、寛和の変の真の黒幕は「詮子だったのではないか」という説がある。 |
藤原詮子の晩年 ~平惟仲邸が御所・藤原行成邸で崩御~ |
大内裏から連れ出された花山天皇は、元慶寺で出家。 |
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元慶寺の隣接地にある華山寺は、慈徳寺の旧跡といわれる。 |
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