|
華山寺(かざんじ)は、1658年(万治元年)、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)が創建した寺院。 清和天皇創建の寺院が始まりともいわれ、かつては、藤原詮子が創建した慈徳寺がこの地にあったのだという。 華山寺の隣接地にある元慶寺は、986年( 寛和2年)の寛和の変で花山天皇が出家した寺。 華山寺には、「花山院之墓」とされる五輪塔がある(詳細は不明)。 |
愚堂東寔は、妙心寺の百三十七世。 後水尾天皇や徳川家光・春日局、宮本武蔵などから帰依を受けた臨済宗の高僧。 1661年(寛文元年)10月1日、華山寺で入滅し、翌年、大円宝鑑国師の号が贈られた。 |
藤原詮子は、藤原兼家の次女。 円融天皇に入内し、一条天皇を生んでいる。 詮子が建てた慈徳寺は、藤原実資の『小右記』によると、999年(長保元年)に落慶供養が営まれている。 詮子の弟・藤原道長の『御堂関白記』には、道長が工事を監督したことや、詮子の御幸の様子が記されている。 |
※ | 慈徳寺は一条天皇が即位した986年(寛和2年)の創建という説もある。 |
元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 986年( 寛和2年)6月23日、藤原兼家・道兼父子の策謀により花山天皇がこの寺で出家している(寛和の変)。 |
1001年(長保3年)、詮子は慈徳寺を行啓。 このとき、座主となったのが厳久。 『扶桑略記』や『愚管抄』によると、寛和の変には厳久が大きく関わっていることから、寛和の変の真の黒幕は詮子という説がある。 |
寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは? |
京都市山科区北花山河原町33 御陵駅(京都市営地下鉄東西線・京阪京津線)から徒歩20分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|