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寛和の変(かんなのへん)は、986年(寛和2年)の藤原兼家の謀による政変。 984年(永観2年)、円融天皇が花山天皇に譲位したことで、兼家の兄・伊尹の五男・藤原義懐が外叔父として補佐。 花山天皇の乳母子で信頼が厚かった藤原惟成とともに権勢を奮うようになる。 義懐と惟成は革新的な政策を打ち出すが、関白・藤原頼忠や右大臣・藤原兼家との確執を招いた。 そして、花山天皇が突然の出家・・・ |
※ | 花山天皇の生母は、藤原伊尹の娘・懐子。 |
※ | 藤原惟成の母は、花山天皇の乳母を務めた。 |
※ | 藤原頼忠は、藤原兼家の従兄。 |
花山朝の政策~花山天皇と義懐・惟成・頼忠・兼家~ |
985年( 寛和元年)7月18日、寵愛していた女御の藤原忯子(藤原為光の娘)を亡くした花山天皇は、供養のために出家を考えるようになっていたのだといわれている。 そこに陰謀をめぐらせたのが、早く次女・詮子が生んだ懐仁親王を皇位につけたい藤原兼家。 蔵人として仕えていた三男・道兼に、花山天皇が本当に出家する気になるように仕向けさせたたのだという。 986年( 寛和2年)6月23日、花山天皇が道兼の勧めで山科の元慶寺へ向かうと・・・ 長男の道隆と次男の道綱が清涼殿の三種の神器を凝花舎(皇太子の居所)に移し、内裏の諸門を封鎖。 そして、花山天皇は元慶寺で出家。 道兼も一緒に出家する約束だったが、 「まだ父に出家の事を告げていないので、出家前の姿を一目見せてから・・・」 と言って寺を立ち去ってしまったのだとか。 花山天皇は騙されたことを知るが、既に遅く、宮中では懐仁親王の即位の準備が済んでしまっていた。 花山天皇の補佐役だった藤原義懐は、翌朝、元慶寺に駆け付けるが、出家した天皇の姿を見て自らも出家。 藤原惟成も花山天皇に従って出家し、関白の藤原頼忠もその地位を失った。 そして、懐仁親王が即位して一条天皇が誕生。 外祖父の兼家は摂政に就任している。 |
※ | 藤原頼忠は、関白の地位は失うが太政大臣の地位は維持。 |
※ | 左大臣源雅信は続投。 |
※ | 右大臣には藤原為光が就任。 |
大鏡が伝える寛和の変~藤原道兼に騙された花山天皇~ 摂政・関白と摂関政治(藤原氏の政治) |
寵愛していた藤原忯子の死のショックの中、藤原兼家・道兼父子の謀略により元慶寺で出家したとされている花山天皇だが・・・ 出家する前月(5月)、花山天皇は円融天皇の時代には行われなかった端午節会を復活させている。 端午節会で催される馬術競技は、王権を見せつけるためのもの。 「花山天皇の意欲の表れ」とする説があるようだが、真相はどうだったのだろうか? |
競馬・騎射・打毬~花山天皇と円融上皇と王権誇示の馬術競技~ 端午節会・端午の節句~五月の節句は、いみじうをかし~ |
法住寺は、花山天皇が寵愛した藤原忯子の父・藤原為光が妻と忯子の菩提を弔うために創建。 忯子の兄藤原斉信の娘は法住寺に葬られている。 |
藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
『扶桑略記』や『愚管抄』によると、厳久という僧も寛和の変に大きく関わっている。 厳久は、懐仁親王の母・藤原詮子に従属していた僧なのだとか。 |
寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは? |
陰陽師の安倍晴明は、天変により花山天皇が退位することを知っていたのだとか・・・ |
花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ 大鏡が伝える寛和の変~藤原道兼に騙された花山天皇~ |
道兼が花山天皇を連れ出した際、邪魔が入らぬよう警護にあたったのが兼家に仕えていた源満仲。 満仲は、清和源氏の祖・六孫王経基の嫡男。 満仲の嫡男・源頼光は、兼家の新邸落成の祝宴で客人に馬30頭を贈り、道長の土御門殿再建のときには家具・調度のすべてを献上した。 三男の頼信は、道兼や道長に仕え、七代目の源頼朝は鎌倉に幕府を開いている。 寛和の変で出家した惟成は、花山天皇が即位すると、それまで貧乏時代を支えてくれた妻と離縁して満仲の婿となったのだという。 |
紫式部の父藤原為時は、花山天皇に学問を教えていたが、寛和の変で花山天皇が退位すると長く出世が途絶えた。 996年(長徳2年)、越前守に叙任されるまで官職のない状態が続いている。 |
花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~ |
1017年(寛仁元年)、三条天皇の第一皇子敦明親王が東宮(皇太子)を辞退している。 道長が圧力を加えて辞退に追い込んだとされるが、道兼の次男兼隆が騙したという風評も立ったのだという。 |
清涼殿跡 (平安宮) |
清涼殿 (京都御所) |
道隆と道綱が三種の神器を持ち出したのは平安宮の清涼殿。 京都御所の清涼殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 平安時代の内裏(御所)は、京都御所の西方にあった。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
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