奈良・京都

紫式部 紫式部年表



京都:六孫王神社
清和源氏発祥の宮

編集:yoritomo-japan.com








六孫王神社


 六孫王神社は、清和天皇の第六皇子貞純親王の子で、六孫王と呼ばれた源経基を祭神としている神社。

 経基は、961年(応和元年)、臨終に際して「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言したという。

 これを受けた子の満仲が963年(応和3年)に墓所を建て、その前に社殿を造営したのが六孫王神社のはじまり。

 社地は、経基の八条亭があった所。

 多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の一つとされている。





〜清和源氏の祖源経基〜

経基
清和源氏経基流の祖

満仲
多田源氏の祖

頼光
摂津源氏の祖

頼国

頼綱

仲政

頼政
以仁王と挙兵

頼信
河内源氏の祖

頼義

義家

義忠※

為義

義朝

源頼朝

 義家を相続したのは義忠といわれるが、暗殺されたため為義が棟梁と称した。


 源経基は、清和天皇の六男貞純親王の子。

 天皇の六男の子であり、天皇の孫であることから「六孫王」と呼ばれていたという。

 15歳で元服し「源」の姓を賜った。

 ただし、石清水八幡宮に伝わってきた「源頼信告文」によると、経基は陽成天皇の子元平親王の子となっているという。



六孫王神社



〜頼光と頼信〜

 摂津源氏の祖となった頼光は、摂関家の藤原兼家藤原道長藤原頼通に仕えた。

 特に道長には側近として仕え、道長の邸宅・土御門殿再建時には家具・調度のすべてを献上したのだという。

 河内源氏の祖となった頼信は、藤原道兼藤原道長に仕え、諸国の受領や鎮守府将軍などを歴任した。

 頼光は「朝家の守護」と呼ばれ、頼信は「道長四天王」の一人に数えられ、清和源氏の興隆の礎を築いている。



リンクボタン源頼朝は清和源氏ではないのか?

リンクボタン鎌倉と源氏:源氏ゆかりの地を本拠とした頼朝









〜神龍池の誕生水弁財天社〜

 満仲誕生の折、井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願して産湯に使ったと伝えられる。

 ※6月13日弁財天御開帳祭


誕生水弁財天社





〜大通寺と六孫王神社〜

 六孫王神社は、鎌倉時代に源実朝の妻本覚尼(坊門信子・西八条禅院)がこの地に建てた遍照心院(大通寺)の鎮守社とされた。

 その後、戦乱などにより社殿を失い、経基の墓所だけが残されていたが、江戸時代になり、徳川五代将軍綱吉の宝永年間に、現在の本殿・拝殿が再建されている。


大通寺
リンクボタン大通寺

 明治に入ると大通寺は神仏分離によって切り離され、1911年(明治44年)には旧国鉄用地となったため移転している。


兒水不動明王堂
リンクボタン兒水不動明王堂

 六孫王神社の北にある兒水不動明王堂は、大通寺が現在地に移転する前の境内にあったのだという。









〜武田・小笠原に伝えられた弓馬道〜

武田流流鏑馬
リンクボタン武田流流鏑馬
小笠原流流鏑馬
リンクボタン小笠原流流鏑馬

 896年(寛平8年)、源能有が「弓馬の礼」を制定。

 その技術は、源経基が伝承し、満仲→頼信→頼義義家に相伝され、義家の弟義光から武田家小笠原家に伝えられた(参考:流鏑馬神事)。





〜河内源氏ゆかりの史跡〜

壺井八幡宮
リンクボタン壺井八幡宮

(羽曳野市)
源頼義の墓
リンクボタン源氏三代の墓

(羽曳野市)

 河内源氏は、経基の子頼信から始まる清和源氏の一流。

 壺井八幡宮は、二代目の頼義が石清水八幡宮を勧請して創建。

 菩提寺だったという通法寺跡には、頼信・頼義・義家の墓がある。




歴史めぐり源頼朝




六孫王神社
六孫王神社

京都市南区壬生通八条角

JR京都駅から徒歩13分
市バス17系統「六孫王神社前」からすぐ



洛中エリアの寺社・史跡
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。








奈良・京都


葵祭

祇園祭

時代祭


中世歴史めぐり





紫式部 紫式部年表


鎌倉殿の13人 後白河法皇
後鳥羽上皇 二代執権北条義時