1028年(長元元年)、房総では平将門以来の大規模な反乱「平忠常の乱」が起こります。 平忠常は、坂東八平氏の祖平良文の孫で、母は平将門の次女。 |
将門塚 (東京都千代田区) |
神田明神 (東京都千代田区) |
忠常の祖父将門は、自らを新皇と称して反乱を起こしますが、940年(天慶3年)2月14日、藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧されました。 |
朝廷は、忠常の征圧に平直方を起用しますが、反乱を鎮圧することができなかった直方は更迭されてしまいます。 1030年(長元3年)、代わって追討使に任命されたのが河内源氏の祖源頼信でした。 頼信は、子の頼義とともに翌1031年(長元3年)の春に出陣。 すると忠常は、これまでの戦いで疲弊していた事もあって頼信に降伏します。 忠常が降伏したのは、かつて頼信の家人だったからという説もあるようです。 二人の子とともに頼信のもとへ投降した忠常は、京都へ護送される途上の美濃国で病死したと伝えられています。 |
平忠常の乱を鎮圧した後の1036年(長元9年)、源頼義は相模守に任ぜられます。 その在任中、頼義の武勇に感じ入った平直方は、娘を嫁がせ、鎌倉の大蔵亭を頼義に譲り渡します。 これにより、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となります。 『陸奥話記』によると・・・ 「わしは、不肖の武者だが、それでも平将門を討った貞盛の子孫である。 それ故、何を置いても武芸を大切に考えてきたが、これまで貴殿のような弓の達人を見たことがない。 是非、我が娘を貰っていただきたい。 下女でも妾でも構わないので」 と頼義に頼んだのだとか。 |
鶴嶺八幡宮は、源頼義が平忠常の乱を鎮圧する際、懐島郷矢畑に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建したことに始まるのだと伝えられています。 |
川越八幡宮は、源頼信が平忠常の乱の戦勝に感謝して創建した社と伝えられています。 |
甘縄神明神社 |
八幡太郎義家氏神 |
源頼義は、甘縄神明神社に祈願しての嫡男の八幡太郎義家を授かったのだと伝えられています。 直方の娘は、義家の他、賀茂次郎義綱、新羅三郎義光を産んでいます。 |
前九年合戦(前九年の役)の戦勝を京都の石清水八幡宮に祈願した源頼義は、1063年(康平6年)、願いが叶えられたことに感謝し、由比郷鶴岡に石清水八幡宮の神霊を勧請します。 これが鶴岡八幡宮のはじまりとなります。 |
源頼朝の父義朝も鎌倉の亀谷に屋敷を構えてを東国支配の拠点としました。 その場所には、壽福寺が建てられています。 源義朝の旧跡に創建された寺 |
1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たした源頼朝は、鎌倉を本拠とします。 『吾妻鏡』によると、頼朝に鎌倉入りを勧めたのは千葉常胤。 その理由は、鎌倉は三方を山に囲まれ、前面は海という天然の要害であり、源頼義以来、河内源氏の東国支配の拠点となっていたから。 鎌倉入りを進言した千葉常胤 |
※ | 頼朝の鎌倉入りに参じた千葉常胤と上総広常は、平忠常の子孫。 |
源頼朝の挙兵を支援し、鎌倉幕府で執権となった北条時政は、平直方の子孫なのだとか。 『吾妻鏡』で北条時政は、 「上総介平直方の五代の孫北条四郎時政主は当国の豪傑なり」 と紹介されています。 鎌倉北条九代 |
壺井八幡宮は、前九年の役に勝利した源頼義が石清水八幡宮を勧請して創建した河内源氏の氏神。 |
河内源氏の氏寺だった通法寺跡には、源氏三代の墓(頼信・頼義・義家)があります。 |
誉田八幡宮は、応神天皇陵古墳の南に建立された神社。 源頼朝寄進の神輿が残されています。 |
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