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鶴嶺八幡宮は、1030年(長元3年)、源頼義が平忠常の乱を鎮圧する際、懐島郷矢畑に京都の石清水八幡宮を勧請して懐島八幡宮を創建したことに始まるのだと伝えられている。 前九年の役(1055年(天喜3年))の際にも戦勝祈願が行われ、1063年(康平6年)に反乱を鎮圧すると、鎌倉の由比郷に懐島八幡宮を勧請したといわれる。 頼義の子義家は、後三年の役の際に祈願し、勝利したことから、1089年(寛治3年)、隣郷の浜之郷に社領を寄進して現在の鶴嶺八幡宮を創建した。 1191年(建久2年)には、源頼朝の命により大庭景義が社殿を修復して再興。 このときに西隣りに伊予の三島の神を祀る佐塚明神社が建立されている。 のちに佐塚明神社が合祀され、鶴嶺八幡宮が佐塚明神社の祭礼「浜降祭」を主宰するようになったのだという。 蒙古襲来の際には、その退散に功があったと伝えられている。 |
※ | 頼義が勧請したのは石清水八幡宮ではなく宇佐神宮だという説もある。 |
※ | 頼義創建の懐島八幡宮は佐塚明神のある丘に建てられ、義家による遷宮後は「本社宮」と改称されている。 |
応神天皇 仁徳天皇 佐塚大神 菅原道真(鶴嶺天満宮合祀) |
本社宮 |
浜降祭 |
前九年の役で勝利した源頼義は、1063年(康平6年)、鎌倉の由比郷に懐島八幡宮を勧請し由比若宮を創建したといわれている(現在の鶴岡八幡宮)。 懐島八幡宮は、その旧社であることから「本社八幡宮」と呼ばれていたという。 のちに源頼朝は、懐島郷に領地を寄進して安堵している。 |
由比若宮 |
鶴岡八幡宮 |
鎌倉と源氏:源氏ゆかりの地を本拠とした頼朝 |
松並木の参道 |
太鼓橋 |
鶴嶺八幡宮は、1590年(天正18年)、小田原の後北条氏が滅ぶと荒廃したが、1649年(慶安2年)、徳川幕府によって、七石の領地を与えられ社領を認められた。 その記念に別当寺「常光院」の朝恵は、荒れ果てた社殿を地頭山岡景信の協力を得て修復する。 参道の松は、朝恵によって植えられたものと伝えられている。 参道の松並木は、茅ヶ崎市の史跡に指定され、松は天然記念物に指定されている。 |
鶴嶺八幡宮を再興した朝恵上人の碑(中央)。 右の碑には、 「ながながと参道に列並む松のみど里 朝恵上人を永久に語り次ぐべし 三郎」 「今もなお朝恵の松の若みどり 十八世鴨立庵 芳女」 と刻まれている。 |
左の神石は、「女護が石」と呼ばれ、願い事を念じながら石の肌をさすり、自分の身体をなでると病等は平癒し、願い事は成就すると伝えられ、現在では、女性の守護神として信仰されている。 |
大銀杏 |
槇 |
大銀杏は値廻り8.5メートル、高さ29メートルの巨木。 源義家が鶴嶺八幡宮を現在の地に遷座したときに植えたものと伝えられている(神奈川県指定天然記念物)。 槇は、源頼義が前九年の役の戦勝祈願のために植えたと伝わる御神木。 |
稲荷大明神 |
鉾宮神社 |
淡島神社 |
針塚 |
宮鐘 |
厄割石 (かわら投げ) |
「がん封じ」は難病を癒す霊石。 石と体の悪い所を交互にさすり「祓え給え清め給え」と三回念じるのだという。 神明大神宮に兄弟石が勧請され、両方をさすると病を癒す力が増すという。 |
神明大神宮霊石 |
神明大神宮 |
弁慶塚 |
龍前院 |
参道の傍らにある弁慶塚には、源頼朝が相模川の橋供養に参列した帰路、源義経や源行家らの亡霊が現れ、落馬したという伝説が残されている。 鶴嶺八幡宮裏手の龍前院にある10基の五輪塔は、頼朝の落馬の責任をとって自害した警護の者10名の墓との説もある。 |
源義経や安徳天皇の怨霊が・・・ |
「茅ヶ崎駅」から「平塚駅行き」バス「町屋」 または「今宿」下車 |
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