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神明大神宮は、大庭御厨の領主大庭景義(景能)が館の鬼門に伊勢神宮を勧請して建立した社。 周辺一帯は、景義の懐島城があった地。 社殿裏には、懐島館址碑と景義の像が建てられている。 |
祭神 | 天照大神 (あまてらすおおみかみ) |
高望王流桓武平氏 |
大庭御厨は、鎌倉権五郎景政によって開発され、伊勢神宮に寄進された寄進地荘園。 現在の寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市にまたがる相模国最大の御厨だった。 御厨とは、天皇や伊勢神宮などの領地を意味する。 1144年(天養元年)には、源義朝が鎌倉郡内だと称して乱入し、大規模な収奪を行ったという歴史もある。 |
大庭景義は、鎌倉権五郎景政の曾孫といわれている(※鎌倉氏・大庭氏の系図には諸説ある。)。 大庭御厨の懐島郷に館を構えたことから「懐島太郎」と称した。 景義は、源義朝に仕え保元の乱(1156年(保元元年)に従軍し、源為朝(義朝の弟)の矢を受け負傷。 以後、家督を弟の景親に託し、懐島で暮らした。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると景義はそれに従うが、弟の景親は、頼朝に敵対。 景親は、石橋山の戦いで頼朝軍を撃破したが、頼朝が富士川の戦いで平家軍を敗走させると、頼朝の下に投降し、片瀬で処刑された。 一方、景義は頼朝の御家人として北条政子の鎌倉入りの出迎えや、鶴岡八幡宮の造営、頼朝の御所(大倉幕府)の造営などを仕切った。 景義と景親には、源平の合戦でどちらが勝つにしても「大庭の家を残す」という思惑があったのかもしれない。 1189年(文治5年)の奥州征伐では、朝廷の勅許を得られない頼朝に「部下(泰衡)を討つのに天皇の許可は必要ない」と進言したのだという。 頼朝の死後の1210年(承元4年)4月9日没。 子景兼が家督を継いだが、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦で、和田義盛に味方したことで大庭氏の勢力は衰退した(参考:養命寺(藤沢))。 |
必中必殺の源為朝の矢を受けて生き残った者は、景義のみだという伝説が残る。 |
奥州藤原氏の征伐に勅許の必要なし!〜大庭景義の逸話〜 必中必殺の源為朝の矢を受けて生き残ったのは大庭景義ただ一人! 大庭景義に不思議な出来事が起こった月 |
宝生寺 (茅ヶ崎市) |
懐嶋山の碑 (茅ヶ崎市) |
宝生寺の阿弥陀三尊像は、信濃善光寺の本尊の模像で大庭景義の持仏ではないかともいわれている。 「懐嶋山の碑」は、大庭景義の墓だとも、源頼朝の子の胎盤を納めた塚だともいわれる。 |
鎌倉権五郎景政 相模の武将「大庭氏」 大庭城址 |
「景能祭」は、2003年(平成15年)から行われている神事。 碑の「景能祭」は鎌倉の鶴岡八幡宮宮司・吉田茂穂氏の揮毫。 |
層塔には、景義ゆかりの鶴岡八幡宮の源平池、景義邸跡、景義の子景兼ゆかりの和田塚の三カ所の土を鶴岡八幡宮若宮でお祓いを受けて祀っているのだという。 |
「がん封じ」の霊石は鶴嶺八幡宮から勧請されたもの。 鶴嶺八幡宮に祀られている霊石の両方をさすると病を癒す力が増すという。 7月の「浜降祭」のときに「がん封じ」の祈祷が行われる。 |
浜降祭は、相模国一之宮の寒川神社の神輿をはじめ、寒川町、茅ヶ崎市の約40基の神輿が茅ヶ崎西浜海岸に集結し、早朝の海で「禊」(みそぎ)を行う祭事。 |
御霊神社は、大庭景義が先祖の鎌倉権五郎景政を祀ったのが始まりで、源頼朝の前に亡霊となって現れた源義経が合祀されているのだという。 |
神奈川県茅ケ崎市円蔵2282 JR東海道線「茅ヶ崎駅」から徒歩30分 JR相模線「北茅ヶ崎駅」から徒歩20分 茅ヶ崎駅からバス「円蔵」下車すぐ |
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