|
桓武平氏は、桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫。 このうち、葛原親王の孫(または子)の高望王が「平」を賜ったことに始まる平氏は高望王流。 889年(寛平元年)、高望王(平高望)が上総介として東国に下向したことにより、東国は武家平氏が盤踞する地となる。 |
桓武天皇 |
葛原親王 |
高見王 |
高望王 (平高望) |
高望王の長男・国香は、常陸国真壁郡東石田を本拠とし、妻の父・源護から常陸大掾の地位を受け継ぎ勢力を拡大。 しかし、935年(承平5年)、甥の平将門に殺された。 国香の嫡男・貞盛は、940年(天慶3年)、藤原秀郷とともに平将門の乱を鎮圧。 貞盛の子・維将の娘は紫式部と姉妹同様の仲だった筑紫の君。 同じく貞盛の子維衡は、伊勢国を地盤とした伊勢平氏の祖で、藤原道長のもとで道長四天王の一人に数えられた。 我が国初の武家政権を築いた平清盛は、貞盛・維衡の子孫。 国香の次男・繁盛は、貞盛とともに平将門の乱を鎮圧。 繁盛の孫・為賢は1019年(寛仁3年)に起こった刀伊の入寇で藤原隆家の指揮のもとで活躍し、肥前伊佐氏の祖となった。 |
高望王 (平高望) |
国香 |
↓
|
↓
|
||||||||||||
↓
|
↓
|
↓
|
※ | 源頼朝とともに鎌倉に武家政権を創った北条時政・政子・義時は平直方の子孫といわれる。 |
鎌倉北条九代 |
高望王の二男・良兼は、上総国武射郡を本拠とし、上総や下総に勢力を拡大。 長子の公雅は、平将門の乱で荒廃していた浅草寺を再建したことで知られる。 |
高望王 (平高望) |
良兼 |
↓
|
↓
|
高望王の三男・良将は、下総国を拠点にしたといわれる。 子の将門は、伯父の国香を殺し、関東の最強豪族となって新皇と称したが、940年(天慶3年)、国香の子・貞盛と藤原秀郷に攻められて敗死。 将門の弟・将平は、将門が敗死すると秩父地方に逃れ、源経基に討たれたのだという。 将門が開基と伝わる皆野町の円福寺には将平の墓がある。 |
高望王 (平高望) |
良将 |
↓
|
↓
|
将門塚は、京都で晒された将門の首が飛来した地。 |
神田明神 (東京都千代田区) |
神田明神 (京都市下京区) |
千代田区の神田明神は将門を祀る社。 京都の神田明神は将門の首が晒された地に建つ社。 |
高望王の五男・良文は、相模国鎌倉郡村岡を本拠として村岡五郎と称した。 良文の子忠頼は将門の娘春姫を妻とし、忠常と将恒を儲けた。 忠常は、1028年(長元元年)、将門以来の大きな反乱を起こすが、源頼信・頼義父子に鎮圧されている(平忠常の乱)。 平忠常の乱後、貞盛の曾孫にあたる直方が頼義に鎌倉の大蔵邸を寄進したことで、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となった。 忠常は房総平氏の祖と呼ばれ、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵に参じた千葉常胤や上総広常は子孫。 将恒は、秩父平氏の祖とされ、頼朝の挙兵に参じた畠山重忠は子孫。 |
高望王 (平高望) |
良文 |
↓
|
↓
|
||||
↓
|
↓
|
↓
|
良文の孫にあたる忠通は、忠光の子とされるが定かではない。 坂東八平氏の一つ三浦氏の祖為通は忠通の子。 忠通は源頼光や源頼信に仕える一方、摂関家にも繋がっていたのだという。 のちに、三浦氏の所領である三崎荘は、藤原道長の三女寛子が敦明親王との間に儲けた儇子内親王に寄進されているのだとか。 三浦氏は、為通が源頼義から相模国三浦郷を与えられたことに始まり、代々源氏に仕え、子孫の義明・義澄・義村・和田義盛・岡崎義実は源頼朝に仕えている。 また、忠通は鎌倉氏の祖ともいわれ、大庭御厨を開拓した鎌倉権五郎景政は子孫といわれる(諸説あり)。 頼朝の挙兵に敵対した大庭景親や梶原景時も鎌倉氏の出身。 |
村岡御霊神社 (藤沢市) |
平良文墓 (藤沢市・二伝寺) |
村岡御霊神社は、良文が京都の御霊宮を勧請したと伝えられる社。 良文の孫忠通を祖とする鎌倉権五郎景政が合祀されている。 後北条氏の玉縄城の砦の役割を果たしていたという二伝寺の裏山には、良文・忠光・忠通三代の塚がある。 |
葛原岡神社は、鎌倉の葛原ヶ岡に建立された社。 「葛原ヶ岡」という地名は、鎌倉景成が先祖の葛原親王を氏神として丘上に祀ったことで付けられた名といわれている。 鎌倉の梶原の鎮守・御霊神社は葛原親王の社を遷座したとも伝えられ、同じく坂ノ下の御霊神社はその分社とも伝えられる。 景成は良文の子孫とされ、景成の子が鎌倉権五郎景政。 その子孫には梶原景時や、大庭景親・大庭景義・俣野景久の兄弟がいる。 |
長尾定景も鎌倉権五郎景政の子孫。 源頼朝の石橋山の戦いで、岡崎義実の嫡男佐奈田与一義忠を討ち、源実朝を暗殺した公暁を討ったとされる武将。 戦国武将・上杉謙信の先祖とされる。 |
|