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平為賢(たいらのためかた)は、平安遷都をした桓武天皇の子孫(高望王流桓武平氏)。 |
桓武天皇 |
葛原親王 |
高見王 |
高望王 (高望王流桓武平氏の祖) |
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高望王流桓武平氏は、高望王が上総介となったことから東国に根を張ることに。 為賢の父維幹は、平将門の乱を鎮圧した伯父の平貞盛の養子となって、常陸国筑波郡多気を拠点とし多気権大夫と称した。 維幹は、京都においては貞盛の子維敏や三条天皇の皇后宮藤原娍子の兄弟ともいわれる平維叙とともに藤原実資に仕えていたのだという。 そして、維幹の四男・為賢は常陸国伊佐郡を本貫とした伊佐平氏の祖。 1019年(寛仁3年)に起こった刀伊の入寇では、九州武士団とともに大宰権帥だった藤原隆家に従って活躍。 戦後、肥前国鹿島藤津荘に土着して肥前伊佐氏の祖となった。 |
為賢の妻は、高階成順の娘(大姫御前と呼ばれていたらしい。)。 義父の成順は、藤原伊周・隆家兄弟の母高階貴子の兄弟である明順の子。 つまり、大姫御前は貴子の姪孫(てっそん・甥の子)、為賢が従った隆家の従姪(じゅうてつ・従兄弟の娘)。 『宇治拾遺物語』によると、妻の大姫御前は、維幹が上洛した時に盗み、常陸国へ連れ帰った娘なのだとか。 |
為賢とともに刀伊の入寇で活躍した平致光は、上総介だった平良兼の孫。 藤原伊周の郎党だったらしく、藤原実資の『小右記』によると、996年(長徳2年)の長徳の変で検非違使に家宅に踏み込まれ逃亡したのだという |
為賢らは、刀伊の入寇撃退の恩賞として高来郡を下賜され、伊佐の字をとって伊佐早としたのだという(現在の諫早の語源)。 |
刀伊の入寇の恩賞と武士の台頭 |
為賢らのように反乱や外寇の鎮圧目的で九州に下向した平氏を鎮西平氏と呼ぶ。 |
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