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1019年(寛仁3年)に起きた外敵による侵略(刀伊の入寇)は、大宰権帥・藤原隆家らの活躍によって撃退したが、その恩賞はどうだったのか・・・ 刀伊の入寇は3月27日から約2週間にわたって行われたが、京都にその報告が届いたのは4月17日だった。 翌日、朝廷は恩賞を約束した勅符が発給しているが・・・ 6月29日に行われた陣定では、勅符が出されたのが刀伊が撤退した後のことだったため、藤原公任と藤原行成は、 「勅符が出される前に戦闘に及んでいるので私闘である」 として、恩賞を与える必要はないと主張。 これに対して藤原実資は、 「勅符がなく戦闘に及んだとしても勲功ある者は賞するべき」 として、894年(寛平6年)の新羅の入寇の際の恩賞を例をあげたのだという。 当時は、各地の豪族や在庁官人が勢力を拡大しつつある時代。 公任と行成が反対した理由は、勅符なしに武装化して軍事行動を起こされてしまうことの危険性を考えての事だったようだが・・・ 実資が、多くの者が殺害され、拉致されたことなどを述べると、藤原斉信が同意し、公任と行成も翻意、すでに一線を退いていた藤原道長もこれに同意したのだとか。 ただ、大宰大監の大蔵種材が壱岐守に任じられているらしいが、他の功労者がどのような恩賞を与えられたのは明確になっていない。 総指揮をとったという藤原隆家は、12月に帰京するが、恩賞はなかったらしい。 |
※ | 実資が刀伊の入寇の様子を詳しく知っていたのは、隆家が私的に報告していたかららしい。 |
刀伊の撃退に功のあった九州の武士団への恩賞は十分なものではなかったと伝えられている。 地方勢力の台頭を恐れていた道長が出し渋ったともいわれているが、こういった対応は公任や行成が懸念していた武士の台頭へと繋がっていく。 1027年(万寿4年)12月4日、道長が薨去すると、翌年、東国では房総平氏の平忠常の反乱を起こす(平忠常の乱)。 反乱を鎮めたのは河内源氏の祖・源頼信だった。 1051年(永承6年)には、陸奥国で勢力を広げていた安倍頼良と陸奥守・藤原登任の間で戦いが起こる(前九年の役)。 頼信の子頼義とその子・義家だった。 義家は、その後の後三年の役でも活躍するが、朝廷は私闘と判断して恩賞を与えなかった。 義家は従軍した坂東武者たちに私財から恩賞を与えて「武神」と称えられている。 武士の台頭は、やがて摂関時代が終わらせ、院政の時代、平清盛の武家政権を経て、源頼朝の武家政権へと繋がっていく。 参考までに、刀伊の入寇で活躍した平為賢は、戦後、肥前国に土着し肥前伊佐氏の祖となっている。 |
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鎌倉時代の外敵の侵攻(元寇)でも、恩賞に関する問題で御家人が困窮し、鎌倉幕府滅亡へとつながっていく。 |
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