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939年(天慶2年)、自らを新皇と称して反乱を起こし、翌年2月14日、藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された平将門。 その首は京都で晒されるが、夜空へ舞い上がり、故郷へ向けて飛び去っていったのだという。 その首が落ちた場所とされるのが、東京都千代田区大手町にある将門塚。 将門に縁のある者が、京都で晒された首を持ち帰って、葬ったのだとも伝えられている。 |
将門塚は、令和2年11月から改修工事が行われ、令和3年4月に竣工した。 |
藤原秀郷は、宇都宮二荒山神社で授かった霊剣をもって将門に勝利したのだという。 |
将門塚のある地はかつての武蔵国豊嶋郡芝崎村。 周辺には、日輪寺や神田明神があった。 1307年(徳治2年)、遊行二祖の他阿(たあ・真教)が荒れ果てた首塚を整備し、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈り、首塚に自らが揮毫した板碑を建立して、日輪寺で供養が行われたのだという。 1309年(延慶2年)には、その霊が神田明神に奉祀された。 毎年9月の彼岸に将門塚例祭が執り行われ、5月の神田祭では、鳳輦(ほうれん)・神輿が渡御する。 |
将門の孫忠常は房総平氏の祖と呼ばれ、源頼朝の挙兵に参じた千葉常胤や上総広常の先祖。 |
桓武天皇 第50代天皇 |
平高望 |
良文 |
忠常 (母は将門の娘) |
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高望王流桓武平氏 |
平清盛を生んだ伊勢平氏の祖は、将門を討った平貞盛の四男・維衡。 藤原道長に仕えて「道長四天王」と称された。 |
高望王流桓武平氏 |
京都の膏薬の辻子にある神田明神は、将門の首が晒された地の建てられた社。 |
毘沙門堂 (東寺) |
明王堂 (神護寺) |
東寺の兜跋毘沙門天は、将門調伏のために羅城門に安置されていたのだという。 神護寺の不動明王は、将門調伏のために下総国へ運ばれ、京都広沢の遍照寺・寛朝僧正を導師として御祈祷がなされたのだという。 |
成田山新勝寺は、朱雀天皇の密勅により東国へ遣わされた寛朝僧正が、下総国で平将門調伏のための護摩焚きを行ったことに始まるのだという。 |
東京都千代田大手町 東京メトロ・都営地下鉄大手町駅C5出入口からすぐ |
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