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神護寺には、空海の作という不動明王像があったが、939年(天慶2年)に平将門の乱が起こると、将門調伏のために下総国へ運ばれ、京都広沢の遍照寺・寛朝僧正を導師として御祈祷がなされたという。 その後、乱が鎮まると寛朝を開山として成田山新勝寺が建立された。 現在神護寺に安置されている不動明王像は、平安時代中期頃の作と考えられているが、平将門の乱を鎮めるために下総国へ下った不動明王像との関係は不明。 |
平将門は、桓武天皇から5代目の子孫。 平姓を授けられた高望王の三男で下総国を本拠としていた平良将の子。 一族間の争いに勝利し、次第にその勢力を拡げていくが、それが謀反とみなされ、やがて朱雀天皇に対抗して新皇を称するようになる。 間もなく藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された(940年(天慶3年)2月14日)。 のちに、源頼朝が挙兵したときに参じた三浦氏・千葉氏は、将門を援護したという叔父の平良文を祖とし、坂東八平氏と呼ばれる。 |
東寺の毘沙門堂に安置されている国宝の兜跋毘沙門天像は、平将門の乱の際に、守護神として羅城門に安置されたものと伝えられる。 |
宇治の末多武利神社は、平将門の乱を鎮圧するため東国へ向かったが、現地に到着する前に将門が討たれてしまい、恩賞を与えられなかった藤原忠文の怨霊を鎮めるために建てられたという。 |
膏薬の辻子にある神田明神は、将門の首が晒された地の建てられた社。 |
将門塚 (東京千代田区) |
神田明神 (東京千代田区) |
将門塚は平将門の首が葬られた地。 京都で晒された将門の首は、武蔵国豊嶋郡芝崎村まで飛んで行き、のちに神田明神に祀られたのだという。 |
948年(天暦2年)、八坂の五重塔が皇居の方へ傾いたときに、浄蔵貴所という僧が傾いた塔を法力で元に戻した。 その際、祈祷の本尊だったのが不動明王像。 その後、その不動明王像は神護寺に安置されていたが、文覚が以仁王の令旨をその像の中に隠し、伊豆に流されていた源頼朝に渡したという伝説が残されている。 そして、現在、鎌倉の浄光明寺にある不動明王像がそれだという。 |
神護寺は和気清麻呂が建てた2つの寺が合併して誕生した寺。 その後、荒廃した神護寺の再興に尽力したのが文覚。源頼朝もそれを援助した。 |
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