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東寺(教王護国寺)の毘沙門堂は、兜跋毘沙門天像(国宝)を安置するために建てられた堂。 兜跋毘沙門天像は、弘法大師が中国・唐で手に入れたもので、939年(天慶2年)の平将門の乱の際に都の守護神として羅城門の上層に安置されたが、978年(天元元年)の台風で羅城門が倒壊した後、東寺に移された。 その後、食堂に安置されたりしていたが、1822年(文政5年)に毘沙門堂が建てられた(※現在は宝物館に安置されている。) 学業成就、安産の神として信仰を集めている。 |
東寺の兜跋毘沙門天は、日本最古という「都七福神」の一つ。 他の神は、ゑびす神(ゑびす神社)、大黒天(松ヶ崎大黒天)、弁財天(六波羅蜜寺)、福禄寿(赤山禅院)、寿老神(革堂)、布袋尊(萬福寺) |
平将門は、桓武天皇から5代目の子孫。平姓を授けられた高望王の三男で下総国を本拠としていた平良将の子。 将門は、一族間の争いに勝利し、次第にその勢力を拡げていくが、それが謀反とみなされ、やがて朱雀天皇に対抗し新皇と称するようになる。 しかし、間もなく藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された(940年(天慶3年)2月14日)。 のちに、源頼朝が挙兵したときに参じた三浦氏・千葉氏は、将門を援護したという叔父の平良文を祖とし、坂東八平氏と呼ばれる。 |
平将門の乱が起こると、神護寺の弘法大師作といわれた不動明王が下総国へ運ばれ、将門調伏の祈祷が行われたのだという。 |
宇治の末多武利神社は、平将門の乱を鎮圧するため東国へ向かったが、現地に到着する前に将門が討たれてしまい、恩賞を与えられなかった藤原忠文の怨霊を鎮めるために建てられたのだという。 |
成田山新勝寺は、朱雀天皇の密勅により東国へ遣わされた寛朝僧正が、下総国で平将門調伏のための護摩焚きを行ったことに始まるのだという。 |
兜跋毘沙門天像が安置されていたという羅城門は都の正門。 朱雀大路の南端に建てられ、羅城門の東西に王城鎮護の寺として東寺と西寺が置かれていた。 |
伝説によると、940年(天慶3年)、藤原秀郷と平貞盛に討ち取られた将門の首級は、平安京に運ばれて晒されたが、三日後、白光となって舞い上がり、故郷へ向かって飛んで行ったのだと伝えられている。 膏薬の辻子にある神田明神は、将門の首が晒された地の建てられた社。 |
将門塚 (東京千代田区) |
神田明神 (東京千代田区) |
将門塚は将門の首が落ちたといわれる地。 京都で晒された将門の首は、武蔵国豊嶋郡芝崎村まで飛んで行って葬られ、のちに神田明神に祀られたのだという。 |
東寺(教王護国寺)は、桓武天皇によって平安京鎮護の官寺として創建された。 のちに弘法大師に下賜され、我が国初の密教寺院となった。 |
京都市南区九条町1 JR京都駅八条口から徒歩15分 近鉄「近鉄東寺駅」下車徒歩10分 |
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