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弘法大師空海

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 弘法大師空海は、774年(宝亀5年)に讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。

 父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀大足の娘(あるいは妹)。


 阿刀大足(あとうおおたり)は桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師。
 都に出た弘法大師空海は、大足の下で勉学に励んだという。





弘法大師像
東寺の修行大師像


 789年(延暦8年)、15歳のときに都に出て儒教を学ぶが、793年(延暦12年)には、仏教を学び山林に分け入って厳しい山岳修行をし、さまざまな霊力を身につけたといわれている。

 804年(延暦23年)、31歳の時に東大寺戒壇院で得度受戒し、翌年には遣唐使の留学僧として入唐。

 帰国後、高野山を開き、東寺(教王護国寺)を密教寺院にして、我が国に真言密教を根付かせた。

 828年(天長5年)には、民衆のための学校「綜藝種智院」(しゅげいしゅちいん)を開設している。

 835年(承和2年)3月21日入滅。

 921年(延喜21年)、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られた。




金剛峯寺根本大塔
リンクボタン金剛峯寺
(高野山)

 高野山は、弘法大師空海が開いた天空の宗教都市。

 金剛峯寺は高野山真言宗の総本山。



神護寺
リンクボタン神護寺

 弘法大師空海は、高野山東寺(教王護国寺)に入る前に神護寺の前身となる高雄山寺に入り、最初の鎮護国家の修法を行っている。





石上神社 波切不動尊
リンクボタン石上神社と波切不動尊


 東寺(教王護国寺)の執行職は、弘法大師空海の母方の実家である阿刀家が世襲した。

 この石上神社と波切不動尊は、東寺(教王護国寺)北方の住宅街の中にあって、阿刀家の屋敷跡だという。





〜「弘法にも筆の誤り」〜


平安神宮
リンクボタン應天門
(平安神宮)

 勅命により、平安宮(大内裏)の朝堂院の正門・應天門の額を書くことになった弘法大師空海。

 しかし、「應」の字の点を書き忘れてしまい、掲げられた額に筆を投げつけて書き足したのだとか。

 「弘法にも筆の誤り」ということわざは、そこから生まれたらしい。










矢取地蔵
リンクボタン矢取地蔵

 羅城門跡にある地蔵堂には、西寺の守敏僧都に命を狙われた弘法大師空海の身代わりとなったと伝えられる地蔵尊が安置されている。



神泉苑
リンクボタン神泉苑

 神泉苑の法成池の畔では、東寺の弘法大師と西寺の守敏僧都が法力争いをして、弘法大師が勝ったという伝説が残されている。



霊石不動
リンクボタン霊石不動
(不動堂明王院)

 霊石不動は、弘法大師空海が東寺の鬼門に安置した石像。地中深い井戸に封印された石像は今も拝むことができない。




歴史めぐり源頼朝




東寺(教王護国寺)
リンクボタン東寺(教王護国寺)

 東寺(教王護国寺)は、桓武天皇によって平安京鎮護の官寺として創建された。
 のちに弘法大師に下賜され、我が国初の密教寺院となった。


京都市南区九条町1

JR京都駅八条口から徒歩15分
近鉄「近鉄東寺駅」下車徒歩10分



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