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神田明神は、730年(天平2年)、出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)が、先祖の大己貴命(おおなむちのみこと)を武蔵国豊島郡芝崎村に祀ったことに始まる。 1309年(延慶2年)には平将門が奉祀された。 戦国期には、太田道灌、北条氏綱をはじめとする多くの武将が崇敬し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康が戦勝祈願を行っている。 1616年(元和2年)、江戸城の表鬼門守護にあたる現在の地に遷座され、江戸総鎮守として尊崇された。 |
一ノ宮 大己貴命 (おおなむちのみこと・だいこく様) 二ノ宮 少彦名命 (すくなひこなのみこと・えびす様) 三ノ宮 平将門命 |
平将門は、桓武天皇から5代目の子孫。 一族間の争いに勝利し、次第にその勢力を拡げていくが、それが謀反とみなされてしまう。 やがて朱雀天皇に対抗して新皇と称するようになるが、藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された(940年(天慶3年)2月14日)。 伝説によると、京都で晒された将門の首は、三日後、白光となって舞い上がり、故郷へ向かって飛んで行ったという。 その首の飛来地とされるのが、神田明神が創建された武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町)だった。 恐怖した村人は、塚を築いて埋葬したのだという。 その後、天変地異が頻繁に起こり、疫病が流行したことから、将門の祟りと噂されていたが、遊行二祖の他阿(たあ)によって荒れ果てた塚の整備と供養が執り行われ、その霊が神田明神に奉祀されたのだという。 明治に入ると謀反人の将門は祭神から外され、境内摂社に遷されたが、1984年(昭和59年)、本社祭神に復帰している。 |
首が晒された地 神田明神 (京都市下京区) |
首が飛来した地 将門塚 (東京都千代田区) |
将門の孫忠常は房総平氏の祖と呼ばれ、源頼朝の挙兵に参じた千葉常胤や上総広常の先祖。 鎌倉と源氏 |
桓武天皇 第50代天皇 |
平高望 |
良文 |
忠常 (母は将門の娘) |
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939年(天慶2年)、平将門の乱が起こると、京都・神護寺の不動明王が下総国へ運ばれ、京都広沢・遍照寺の寛朝僧正を導師として御祈祷がなされたというのだという。 成田山新勝寺は、その不動明王が祀られた寺であることから、神田明神の崇敬者が成田山新勝寺を参詣してはいけないと伝えられてきた。 |
戦国武将・太田道灌は安房国の洲崎明神を江戸の鎮守として勧請したという。 軍記『永享記』には「神田の牛頭天王と洲崎大明神は安房洲崎明神と一体」とあって、神田明神のことであるともいわれている。 ただ、洲崎明神の祭神:天比理刀当ス(あまのひりのめのみこと)は祀られていない。 |
東京都千代田区外神田2−16−2 御茶ノ水駅聖橋口から徒歩5分 |
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