鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉検定 鎌倉の紅葉



太田道灌の墓
(道灌塚:伊勢原市)

編集:yoritomo-japan.com








太田道灌の墓
洞昌院の道灌墓


 太田道灌は、扇谷上杉家に仕えた戦国武将。

 父資清が相模国の糟屋(現伊勢原市)に本拠を置いていたため、伊勢原市で生まれたと考えられている。

 江戸城河越城を築いたことで知られる道灌は、和歌にも秀でた文武両道を備えた武将であった。

 晩年は、山内上杉家と扇谷上杉家との争いに巻き込まれ、1486年(文明18年)7月26日、その才能を恐れた主君上杉定正(扇谷上杉)の糟屋館におびき出され謀殺された。

 道灌は、死の間際に「当方滅亡」と言い残したという。

 自分が死ねば扇谷に未来はないという予言だという。

 のちに、関東は北条早雲によって攻められ、早雲の孫氏康によって扇谷上杉家は滅ぼされた。



洞昌院
リンクボタン洞昌院
七人塚
リンクボタン七人塚
(道灌家臣の墓)

 洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実(のりさね)の弟道悦(どうえつ)和尚のため建てた寺と伝えられている。

 道灌は、その死後、洞昌院で荼毘に付されたという。 









☆山吹と道灌☆

 鷹狩り出かけた道灌が、ひどい雨に降られ、蓑でも借りられないかと農家に立ち寄ったところ、一人の少女が出てきて「山吹の花」を差し出した。

 道灌は意味がわからず、その話を家臣にしたところ、少女の意が山吹の花にちなんだ古歌「七重八重 花は咲けども 山吹の実(蓑)のひとつだに なきぞ悲しき」にあったことを教えられた。

 「貧乏でお貸しできる蓑さえない」という意味で、「実」と「蓑」をひかっけた少女のとんちだった。

 道灌は自分の教養のなさを恥じ、その後学問に励み、文武両道を供えた名君になったという。



太田道灌像(伊勢原市役所)
道灌像
(伊勢原市役所)


鎌倉・英勝寺のヤマブキ
リンクボタン太田道灌とヤマブキ

(鎌倉:英勝寺)





 伊勢原市下糟屋の大慈寺にも太田道灌の墓がある。

 大慈寺は道灌の菩提寺。

 道灌は洞昌院の裏山で荼毘に付され、洞昌院に胴が、下糟屋の大慈寺に首が葬られたのだという。

 鎌倉の太田道灌の旧跡英勝寺の裏山にも道灌の首塚が存在する。


太田道灌の墓(伊勢原市・大慈寺)
リンクボタン太田道灌の墓

(伊勢原:大慈寺)
太田道灌の首塚(鎌倉)
リンクボタン太田道灌首塚

(鎌倉:英勝寺)


 鎌倉の英勝寺は、太田道灌の子孫で徳川家康の側室英勝院(お勝の方)が創建した寺。





太田道灌像(伊勢原市役所)
リンクボタン道灌まつり

 伊勢原市では、毎年10月の土・日に「道灌まつり」が開催される。









太田道灌の墓碑
太田道灌の墓

伊勢原市上粕屋・洞昌院境内

小田急線伊勢原駅より『バス』
神奈中バス大山ケーブル駅行き
「道灌塚」下車、徒歩約5分











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