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太田道灌は、扇谷上杉家に仕えた戦国武将。 父資清が相模国の糟屋(現伊勢原市)に本拠を置いていたため、伊勢原市で生まれたと考えられている。 江戸城や河越城を築いたことで知られる道灌は、和歌にも秀でた文武両道を備えた武将であった。 晩年は、山内上杉家と扇谷上杉家との争いに巻き込まれ、1486年(文明18年)7月26日、その才能を恐れた主君上杉定正(扇谷上杉)の糟屋館におびき出され謀殺された。 道灌は、死の間際に「当方滅亡」と言い残したという。 自分が死ねば扇谷に未来はないという予言だという。 のちに、関東は北条早雲によって攻められ、早雲の孫氏康によって扇谷上杉家は滅ぼされた。 |
洞昌院 |
七人塚 (道灌家臣の墓) |
洞昌院は、道灌が関東管領上杉憲実(のりさね)の弟道悦(どうえつ)和尚のため建てた寺と伝えられている。 道灌は、その死後、洞昌院で荼毘に付されたという。 |
鷹狩り出かけた道灌が、ひどい雨に降られ、蓑でも借りられないかと農家に立ち寄ったところ、一人の少女が出てきて「山吹の花」を差し出した。 道灌は意味がわからず、その話を家臣にしたところ、少女の意が山吹の花にちなんだ古歌「七重八重 花は咲けども 山吹の実(蓑)のひとつだに なきぞ悲しき」にあったことを教えられた。 「貧乏でお貸しできる蓑さえない」という意味で、「実」と「蓑」をひかっけた少女のとんちだった。 道灌は自分の教養のなさを恥じ、その後学問に励み、文武両道を供えた名君になったという。 |
伊勢原市下糟屋の大慈寺にも太田道灌の墓がある。 大慈寺は道灌の菩提寺。 道灌は洞昌院の裏山で荼毘に付され、洞昌院に胴が、下糟屋の大慈寺に首が葬られたのだという。 鎌倉の太田道灌の旧跡英勝寺の裏山にも道灌の首塚が存在する。 |
太田道灌の墓 (伊勢原:大慈寺) |
太田道灌首塚 (鎌倉:英勝寺) |
鎌倉の英勝寺は、太田道灌の子孫で徳川家康の側室英勝院(お勝の方)が創建した寺。 |
伊勢原市では、毎年10月の土・日に「道灌まつり」が開催される。 |
伊勢原市上粕屋・洞昌院境内 小田急線伊勢原駅より『バス』 神奈中バス大山ケーブル駅行き 「道灌塚」下車、徒歩約5分 |
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