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藤沢市宮前の村岡御霊神社は、坂東八平氏の祖村岡五郎(平良文)が勧請したと伝わる。 平良文は、桓武天皇を祖とする平氏で、承平・天慶の乱では平将門とともに平国香と戦ったとされるが定かではない。 御霊神社の近辺に良文の館があったとされ、祭神の鎌倉権五郎景政もこの地に住したと考えられている。 景政は、良文の子孫。 父景成の代に鎌倉の大倉ヶ谷に館を構え「鎌倉氏」を名乗った(参考:鎌倉坂ノ下「御霊神社」)。 |
祟道天皇 鎌倉権五郎景政 葛原親王 高見王 高望王 |
村岡御霊神社は、平良文が祟道天皇を祀った京の御霊宮(桓武天皇が祀った)を勧請したのが始まり。 のちに鎌倉権五郎景政が合祀された。 さらに、鎌倉幕府五代執権北条時頼の命により、葛原親王、高見王、高望王が合祀されたと伝えられている。 葛原親王は桓武平氏の祖。 鎌倉の「葛原ヶ岡」という地名は、梶原景成がその祖「葛原親王」を氏神として丘上に祀ったことで付けられた地名といわれている(参考:葛原岡神社)。 高見王は、葛原親王の子とされている。 また、高望王は高見王の子とされ、「平」の姓を賜り平高望と名乗った。 |
川名御霊神社(分社) 天満宮(鎌倉上町屋) 高望王流桓武平氏 |
御霊神社の右側の山は旗立山と呼ばれ、1051(永承6年)、源頼義が前九年の役に出陣する際に源氏の白旗を立てて軍を集めたといわれ、のちに、頼義の子義家が1083年(永保3年)の後三年の役に出陣する際にも源氏の白旗が掲げられたと伝えられている。 祭神の鎌倉権五郎景政は、義家に従い後三年の役に出陣するが、そのときに、鎌倉の大倉ヶ谷の自邸を義家に寄進し、自分は由比ヶ浜に新邸を建て、そこを「甘縄」としたといわれている。 |
平良文は「坂東八平氏」の祖とされ、その子孫は、のちに源氏再興の旗挙げをする源頼朝とも大きく関係してくる。 代表的なのが、頼朝の挙兵時に従った三浦氏、石橋山の戦いで頼朝に敵対した大庭景親・俣野景久、頼朝が房総に渡った後に従った千葉常胤、上総介広常などの武将で、これらの武将は、平良文を祖としていると考えられている。 |
三浦一族 大庭氏 梶原景時 |
藤沢市宮前560 JR藤沢駅から徒歩30分程度 湘南モノレール「湘南深沢」駅から徒歩20分程度 |
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