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遍照寺(へんじょうじ)は、989年(永祚元年)、円融法皇の御願により、寛朝僧正が広沢池の畔に創建した真言宗御室派の寺院。 往時は、観音堂・月見堂・釣殿・潜龍亭などがあり、観月の名所だったが・・・ 寛朝僧正の没後は次第に廃れ、鎌倉時代に後宇多天皇によって復興されたが、応仁の乱で廃墟となる。 1820年(文政3年)になってようやく復興された。 木造十一面観音立像と木造不動明王坐像は重要文化財。 |
広沢池は、遍照寺の庭池として造営されたのだという。 そのため遍照寺池とも呼ばれる。 |
寛朝(かんちょう かんじょう) の父は、宇多天皇の皇子敦実親王。 940年(天慶3年)、平将門が反乱を起こした際には、朱雀天皇の命により関東へ下向。 神護寺の不動明王を下総国まで運んで、将門調伏の祈祷を行ったのだという。 その後、仁和寺の別当、東寺の長者、西寺の別当となり、日本で3人目の大僧正となる。 989年(永祚元年)、円融法皇の命により遍照寺を建立した。 998年(長徳4年)6月12日、示寂。 |
将門調伏の祈祷の本尊だった不動明王を安置するのが、「成田不動」で知られる成田山新勝寺。 |
将門調伏のための不動明王は神護寺の明王堂に置かれていた。 |
兒神社は、寛朝僧正の死を嘆いて広沢池に身を投じた兒を祀る社。 |
ある日、遍照寺の寛朝のもとを訪れた安倍晴明は、若い僧に「蛙を殺してみてくれ」と言われ、広沢池の蛙に草の葉を投げて殺してみせたのだとか。 |
蛙を殺した安倍晴明〜遍照寺広沢池の伝説〜 |
大顔は、村上天皇の第七皇子・具平親王の最愛の妾妻。 具平親王とともにお忍びで遍照寺を訪れるが、広沢池の畔で物の怪に襲われて急死してしまったのだという。 紫式部の『源氏物語』で光源氏に恋をした夕顔は、大顔がモデルといわれる。 |
光源氏の愛人・夕顔は、連れ出された某院で物の怪が現れて亡くなっている。 夕顔之墳の石碑が建つ地には夕顔の墓がある。 |
源融 河原院址 |
渉成園 |
光源氏が夕顔を連れ出した某院は、光源氏のモデルの一人とされる源融の邸宅・河原院がモデルなのだという。 渉成園は、東本願寺の飛地境内地で、河原院の一部に造営された庭園。 |
京都府京都市右京区嵯峨広沢西裏町14 山陰本線「嵯峨嵐山」下車 徒歩15分 |
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