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源融(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇の第十二皇子で左大臣となった貴族。 紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされている。 河原院は、北は五条通・南は正面通・西は柳馬場通・東は鴨川にまで及んでいた融の大邸宅。 奥州・塩竃の風景を模して庭園が造営され、尼崎から海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだ地なのだという。 塩竈町や塩小路通などの地名は、その名残りなのだといわれ、五条通沿いにある本覚寺・上徳寺も邸跡とされる。 融の没後は、宇多上皇の御所となり東六条院とも呼ばれた。 |
東本願寺の飛地境内地にある渉成園は、河原院の一部。 |
錦天満宮 |
塩竃神社 |
新京極の錦天満宮は河原院跡に創建された社で、境内の塩竃神社は源融を祀る。 |
鹽竈神社 (塩竃市) |
融ヶ岡 (塩竃市) |
源融は、864年(貞観6年)、陸奥・出羽の按察使として陸奥国に下向したのだという(下向していないという説もある。)。 鹽竈神社は、陸奥国府があった多賀城の鬼門の位置に鎮座する陸奥国一宮。 源融は鹽竈神社の南の融ヶ岡に別荘を構えていたのだという。 |
御釜神社は、鹽竈神社の神器を安置する末社。 毎年7月4日から6日にかけて、古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われる。 |
「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」 この歌は、源融が陸奥国で相思相愛の関係にあった虎女に贈った歌。 |
源融の歌〜河原左大臣が詠んだ陸奥国信夫の歌〜 |
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」 この歌は、夫・藤原宣孝の死後、この世のはかなさを嘆いていた紫式部が陸奥国の名所絵を見て詠んだというもの。 |
紫式部の歌〜見し人の:夫・藤原宣孝の死を悼む歌〜 |
「君まさで 煙絶えにし 塩釜の うらさびしくも 見え渡るかな」 『古今和歌集』の撰者の一人・紀貫之が、煙の絶えた塩釜の浦を見て詠んだ歌。 |
紀貫之の歌〜河原左大臣源融が亡くなって…塩釜の浦〜 |
渉成園にある塩釜と塩釜の手水鉢。 |
『源氏物語』の主人公・光源氏が建設した六条院は、河原院がモデルともいわれる。 |
光源氏が夕顔と一夜を明かした某院は河原院がモデルなのだとか 夕顔之墳の石碑が建つ地には、光源氏に連れ出された某院で、物の怪が現れて命を落とした夕顔の墓がある。 |
清凉寺は、源融の別邸「栖霞観」(せいかかん)があった場所。 阿弥陀堂の木造阿弥陀三尊坐像は、融の発願で造立されたのだという。 |
阿弥陀堂 |
源融の墓 |
阿弥陀堂の木造阿弥陀三尊坐像は源融の発願で造立されたもので国宝。 境内には源融の墓がある。 |
平等院は、源融の別邸「宇治殿」(うじどの)があった場所。 融の没後は、宇多天皇・源重信(宇多天皇の孫)を経て藤原道長のものとなった。 道長の子頼通が宇治殿を寺としたのが平等院。 |
融神社は、源融が閑居した旧蹟にある社。 |
京都市下京区木屋町通五条下る東側 |
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