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陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに |
「陸奥の忍捩摺(しのぶもじずり)の乱れ模様のように、私の心は忍ぶ恋のために乱れている。 それは誰のせいでしょう。あなたのせいですよ・・・」 河原左大臣と呼ばれた源融の歌(『古今和歌集』・『百人一首』に収められた歌)。 忍(信夫)捩摺は、陸奥国信夫郡(福島県福島市)で生産した織物で、石に草木をこすりつけて乱れ模様に染めたもの。 松尾芭蕉も『おくのほそ道』で「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」と詠んでいる。 伝説によると、陸奥国按察使として赴任した源融は、信夫で道に迷い、里の長者の家で世話になった。 長者の娘・虎女と相思相愛となるが、やがて融は再会を約束して帰京。 融に会いたい虎女は、文知摺観音で願をかけ、文知摺石を磨き続けた。 すると、満願の日に文知摺石の面に融の姿を見た。 しかし、精根尽き果てた虎女は病となって亡くなってしまう。 死の直前に都から届いたのがこの歌なのだという。 文知摺観音は、忍(信夫)捩摺の発祥の地なのだとか。 |
源融は、(みなもとのとおる)は、嵯峨天皇の第十二皇子で左大臣となった貴族。 864年(貞観6年)、陸奥・出羽の按察使として陸奥国に下向(下向していないという説もある。)。 |
多賀城跡 (多賀城市) |
浮嶋神社 (多賀城市) |
多賀城には陸奥国府や鎮守府が置かれていた。 浮嶋神社には源融を祀る大臣宮神社が合祀されている。 |
鹽竈神社 (塩竃市) |
融ヶ岡 (塩竃市) |
鹽竈神社は、多賀城の鬼門の位置に鎮座する陸奥国一宮。 源融は鹽竈神社の南の融ヶ岡に別荘を構えていたのだという。 |
河原院址 (京都) |
渉成園 (京都) |
河原院は源融の邸宅。 塩竈の景色を忘れることができない融は、塩竈の風景を模した庭園を造営し、尼崎から海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだのだという。 渉成園は、河原院の一部に造営された庭園。 |
源融の供養塔 (渉成園) |
塩釜と手水鉢 (渉成園) |
渉成園には、源融の供養塔や塩釜と塩釜の手水鉢がある。 |
御釜神社は、鹽竈神社の神器を安置する末社。 毎年7月4日から6日にかけて、古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われる。 |
紫式部の『源氏物語』~夕顔の巻~で光源氏の愛人・夕顔が物の怪に襲われた某院は、河原院がモデルといわれる。 そして、源融は光源氏のモデルの一人といわれる。 |
「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」 この歌は、夫・藤原宣孝の死後、この世のはかなさを嘆いていた紫式部が陸奥国の名所絵を見て詠んだというもの。 |
紫式部の歌~見し人の:夫・藤原宣孝の死を悼む塩竈の歌~ |
「君まさで 煙絶えにし 塩釜の うらさびしくも 見え渡るかな」 『古今和歌集』の撰者の一人・紀貫之が、煙の絶えた塩釜の浦を見て詠んだ歌。 |
紀貫之の歌~河原左大臣源融が亡くなって…塩釜の浦~ |
錦天満宮 |
塩竃神社 |
新京極の錦天満宮は河原院跡に創建された社で、境内の塩竃神社は源融を祀る。 |
『百人一首』の一番歌は天智天皇の 「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」 近江神宮は天智天皇を祀ることから「かるたの聖地」と呼ばれている。 |
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