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見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦 |
「荼毘に付されて煙となって消えてしまった夕べから、陸奥国の塩釜の浦でたなびくという塩焼きの煙までもが懐かしいと思えてしまう・・・」 この歌は、夫・藤原宣孝の死後、この世のはかなさを嘆いていた紫式部が陸奥国の名所絵を見て詠んだ歌。 紫式部は、998年(長徳4年)頃、山城守となっていた宣孝と結婚。 999年(長保元年)には娘の賢子が誕生するが、宣孝は1001年(長保3年)4月25日に死去している。 2月5日に春日祭使(春日大社に神馬を奉納する使者)を辞退しているので、この頃から体調が思わしくなかったらしい。 |
源融 河原院址 |
渉成園 |
河原院は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる源融の邸宅。 渉成園は、東本願寺の飛地境内地で河原院の一部に造営された庭園。 源融は陸奥国の塩釜の風景を模して庭園を造営し、尼崎から海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだのだという。 |
渉成園にある塩釜と塩釜の手水鉢。 |
御釜神社は、陸奥国一宮・鹽竈神社の神器を安置する末社。 毎年7月4日から6日にかけて、古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われる。 |
「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」 この歌は、源融が陸奥国で相思相愛の関係にあった虎女に贈った歌。 |
源融の歌~河原左大臣が詠んだ陸奥国信夫の歌~ |
「見し人の 煙を雲と 眺むれば 夕の空の むつましきかな」 『源氏物語』~夕顔の巻~では、光源氏は寂れた某院に夕顔を連れ出すが、夕顔は物の怪に襲われて命を落としてしまう。 (夕顔を火葬にした煙をあの雲かと思うと、夕方の空も親しく思われる・・・) 光源氏が夕顔を連れ出した某院は河原院がモデルといわれる。 |
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