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藤原賢子(ふじわらのかたいこ・けんし)は、大弐三位(だいにのさんみ)とも呼ばれた歌人。 父は藤原宣孝。 母は紫式部。 999年(長保元年)頃の誕生とされ、父とは幼い頃に死別している。 1017年(長和6年)頃から、皇太后・藤原彰子のもとに出仕。 後に、関白・藤原道兼の次男・兼隆と結婚。 1025年(万寿2年)、彰子の孫にあたる親仁親王(のちの後冷泉天皇)が誕生すると乳母に任ぜられた。 その後、高階成章と再婚し、1054年(天喜2年)には従三位に叙せられ、夫・成章も大宰大弐に就任している。 没年は不明。 |
娘の賢子の成長を願って 若竹の・・・ |
賢子が連れてきた双寿丸のモデルは藤原兼隆?~光る君へ~ |
彰子の女房として出仕した賢子(大弐三位)は・・・ 摂政太政大臣・藤原道長の次男・頼宗、 権大納言・藤原公任の長男・定頼 といった摂関家の若い男子に愛されていたのだという。 源時中の七男・朝任とも交際があったらしい。 参考までに・・・ 和泉式部の娘・小式部内侍も恋多き女性で、藤原教通(道長五男)・藤原頼宗(道長次男)・藤原範永・藤原定頼(公任長男)などとの交際があったのだという。 |
『更級日記』の作者・菅原孝標女の継母・上総大輔は、賢子(大弐三位)の義理の姪。 菅原孝標女は、上総大輔の影響で紫式部の『源氏物語』に憧れた娘時代を過ごしたのだという。 |
蘆山寺は紫式部の邸宅跡とされている。 幼い頃に父の藤原宣孝を亡くした賢子は、ここで育った。 |
越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向した紫式部は、帰京するときに国府に白梅を植えたのだという。 そして、娘の賢子は、母の死後に紅梅を植えたのだとか・・・ 本興寺の境内は、越前国府の中核施設が眠る有力候補地と推定されている。 |
紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
紫式部公園には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。 |
紫式部の死後、賢子(大弐三位)が詠んだ歌と、生前、紫式部が越後にいる父為時を案じて詠んだ歌 |
大弐三位の歌~亡き母紫式部の手紙に書き付けた歌~ 紫式部の歌~越後国に赴任している父為時を案じた歌~ |
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