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藤原兼隆(ふじわら の かねたか)は、関白右大臣・藤原道兼の次男。 985年(寛和元年)誕生。 次男だが、兄が夭折したため嫡男として育てられた。 995年(正暦6年)、父道兼が薨去し、叔父の道長が権力を握ると、従兄弟の伊周とその弟隆家は道長に反抗したが、兼隆は道長の側近として仕えている。 1002年(長保4年)、従三位・右近衛中将に叙任されて公卿に列すると、1008年(寛弘5年)には24歳という若さで参議に任ぜられた。 その後も昇進を続け中納言までになったが、1035年(長元8年)中納言を辞任し、1046年(寛徳3年)に出家。 1053年(天喜元年)10月に薨去(享年69)。 |
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兼隆の正妻は源扶義の娘だが、紫式部と藤原宣孝の娘・賢子とも結婚している。 |
賢子が連れてきた双寿丸のモデルは藤原兼隆?~光る君へ~ |
藤原実資の『小右記』によると、1013年(長和2年)8月、厩舎人(馬の世話をする従者)を殴殺させ、 翌1014年(長和3年)正月、自らの下女とトラブルを起こした実資の下女の家を略奪・破壊させている。 |
1017年(寛仁元年)、三条天皇の第一皇子敦明親王が東宮(皇太子)を辞退しているが、兼隆が騙したという噂が流れたのだという。 かつて、兼隆の父道兼も花山天皇を騙して退位(寛和の変)させていることから、天皇や皇太子に近づけてはいけないとの風評もあったのだとか。 |
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