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五節の舞(ごせちのまい)は、11月に行われる新嘗祭や大嘗祭(天皇が皇位継承したときに行われる新嘗祭)の豊明節会で女性が演じる舞。 天武天皇の時代に創案されたもので、天武天皇の吉野行幸の際、雲に乗って天女が降りてきたという伝承に基づくものとされる。 その曲に5つの節があったことから五節に舞と呼ばれるようになったのだという(他説あり。)。 舞姫を献上する者は、三位以上の公卿2人と四位以下の殿上人または受領が2人といわれている。 当初は貴族の子女が舞姫として奉仕していたようだが、次第に配下の娘が選ばれるようになる。 献上者は過大な経済的負担を負い、数か月前から準備を進めていたらしい。 藤原実資の『小右記』によると、 989年(永祚元年)、参議だった藤原実資が献上した舞姫は、下流貴族の良岑遠高の娘。 舞姫は新任公卿が献上する慣わしがあったらしく、この年に参議となって公卿に列したばかりの実資は、摂政・藤原兼家から舞姫を出すよう言われていたらしい。 清少納言の『枕草子』によると・・・ 993年(正暦4年)、一条天皇の中宮・藤原定子が献上した舞姫は、藤原相尹の娘。 相尹は藤原道隆・道兼・道長兄弟の従兄弟にあたるが、正四位下が極位。 父も受領層に留まった下級貴族。 この五節では清少納言と藤原実方が歌の贈答をしている。 相尹の娘は、のちに藤原彰子に仕えている(馬中将の君)。 藤原実資の『小右記』によると・・・ 999年(長保元年)、中納言となった藤原実資が献上した舞姫は、備前守・源相近の娘。 相近は、従四位下が極位の下級貴族。 藤原行成の『権記』によると・・・ 1003年(長保5年)、参議だった藤原行成が献上した舞姫は、相模守清重の娘。 行成が参議となって公卿に列したのは長保3年だが、長保4年の新嘗祭が中止となったことから、長保5年の献上となったのだという。 『紫式部日記』によると・・・ 1008年(寛弘5年)の新嘗祭での舞姫の献上者は、 新任参議の藤原兼隆と藤原実成、受領層からは尾張守藤原中清と丹波守高階業遠。 中宮・藤原彰子は舞姫に装束などを与えている。 また、弘徽殿女御(実成の姉)に仕える右京(宰相中将)が舞姫の日蔭の蔓の下賜を申し出て彰子から与えられている。 その時に紫式部が詠んだ歌が 「おほかりし 豊の宮人 さしわけて しるき日かげを あはれとぞ見し」 |
紫式部の歌~弘徽殿女御に仕える右京に贈った歌~ |
五節の頃に出仕しない紫式部に弁の宰相の君(藤原豊子)が「残念です」と言ってきたので・・・ |
紫式部の歌~五節が過ぎた頃の藤原豊子との贈答歌~ |
五節の舞姫装束は、「光る君へ」第4話で主人公・まひろが付けていた衣装。 紫式部ゆかりの石山寺に設置された「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」で展示されていたもの。 |
豊楽殿は、平安京の大内裏(平安宮)にあった豊楽院の正殿。 新嘗祭は、11月の中卯・辰の2日にわたって行われ、中卯の日の夕刻、天皇は心身を清め、神嘉殿で神々とともに新穀による神酒・神饌を食した。 そして、翌辰日に豊楽院で豊明節会が催された。 画像は京都市平安京創生館の復元模型。 |
紫式部の『源氏物語』~少女の巻~では・・・ 光源氏は乳兄弟で家来の藤原惟光の娘を献上。 公卿の按察使大納言は正妻以外の妻が生んだ娘を献上。 その他、公卿の左衛門督と近江守・源良清が娘を献上しているが、実子を献上したのは、宮仕えの仰せ言があったからなのだとか。 |
唐崎神社は日吉大社の摂社。 『源氏物語』~少女の巻~では、五節の舞姫だった光源氏の家来・源良清の娘が祓を行った。 |
五節の舞姫~源氏物語(少女)で描かれた光源氏の舞姫~ |
光源氏は五節の舞姫だった筑紫の五節に 「をとめごも 神さびぬらし 天つ袖 ふるき世の友よ はひ経ぬれば」 と詠んで贈っている。 光源氏の子・夕霧は、藤原惟光の娘に 「日かげにも しるかりけめや をとめごが あまの羽袖に かけし心は」 と詠んで贈った。 「少女」(おとめ」とは、五節の舞姫のこと。 藤原惟光の娘は、のちに藤典侍と呼ばれ、夕霧の側室となっている。 |
光源氏と筑紫の五節の贈答歌 夕霧が惟光の娘に贈った歌 |
藤原道長の長女で一条天皇の中宮・彰子に仕えた五節の弁は、平惟仲の養女なのだという。 990年(永祚2年)頃に惟仲の養女となって五節の舞姫になっているらしい。 |
花山の元慶寺を建立し、紫野の雲林院の別当を兼ねた遍昭(良岑宗貞)は、五節の舞姫を見て 「あまつ風雲の通ひ路吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ」 と詠んだ。 |
遍昭が開いた元慶寺では、986年(寛和2年)花山天皇が出家している(寛和の変)。 |
五節の舞姫~遍昭僧正の歌 天女のように美しい舞姫~ |
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