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豊楽殿(ぶらくでん)は、平安京の大内裏(平安宮)にあった豊楽院の正殿。 豊楽院は、800年(延暦19年)以降に大内裏の正庁である朝堂院の西側に隣接して造営された。 |
豊楽殿では、元日節会・新嘗祭・大嘗祭などの国家的行事が行われていた。 天皇列席の際の高御座も置かれたのだという。 しかし、内裏の度重なる焼失で天皇が里内裏に居住するようになり、儀式が紫宸殿で行われるようになると衰亡。 1063年(康平6年)に焼失した後は、再建されなかった。 |
京都御所の紫宸殿に置かれている天皇の御座「高御座」(たかみくら)、皇后の御座「御帳台」(みちょうだい)。 |
白馬節会(あおうまのせちえ)は、正月7日に天皇が紫宸殿または豊楽殿に出御し、白馬をひき出して天覧し、そのあとに宴を開く儀式。 上賀茂神社では「白馬奏覧神事」、住吉大社では「白馬神事」として伝えられている。 紫式部の『源氏物語』~少女の巻~では、二条院に白馬を引き出し、節会を催している。 「末摘花」「賢木」の巻にも白馬節会が描かれている。 |
平安時代の新嘗祭は、11月の中卯・辰の2日にわたって行われていた。 中卯の日の夕刻、天皇は心身を清め、神嘉殿で神々とともに新穀による神酒・神饌を食し、翌辰日には豊楽院で豊明節会が催された。 豊明節会では、舞姫が五節の舞を披露。 紫式部の『源氏物語』~少女の巻~では、光源氏は乳兄弟で家来の藤原惟光の娘を五節の舞姫として献上。 按察使大納言・左衛門督・近江守源良清は娘を献上している。 |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ 五節の舞姫~源氏物語(少女)で描かれた光源氏の舞姫~ 遍昭僧正の歌 天女のように美しい舞姫 |
打毬(だきゅう)は、平安時代に端午節会の際に行われた宮中行事で、競馬や騎射の後に行われていた競技。 822年(弘仁13年)に渤海国の国使が豊楽殿で打毬を行い、その賭として嵯峨天皇から棉200屯を賜ったという記録がある。 紫式部の『源氏物語』~蛍の巻~で光源氏が六条院で催した「手結」(てつがい)は、「打毬」のことではないという説がある。 |
打毬~端午の節会の宮中行事と源氏物語~ |
鴻臚館は、能登国の能登客院や越前国の松原客館に滞在していた渤海使を招いていた施設。 鴻臚館は渤海滅亡後に衰微してしまうが、松原客館は、渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたとういう説がある。 紫式部の父・藤原為時は、その交渉相手として国司に選ばれたとのだといわれる。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
越前国の松原客館があった正確な場所は不明だが、気比の松原付近にあったのではないかといわれている。 また、気比神宮が管理していたことから気比神宮付近にあったという説もある。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
平安宮は、平安京の宮城。 |
内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
平安宮(大内裏)の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、大内裏にあった朝堂院の正殿。 |
内裏後宮・七殿五舎 |
弘徽殿 承香殿 麗景殿 登華殿 貞観殿 宣耀殿 常寧殿 |
飛香舎(藤壺) 凝花舎(梅壺) 昭陽舎(梨壺) 淑景舎(桐壺) 襲芳舎(雷鳴壺) |
紫式部の『源氏物語』では・・・ 桐壺帝の更衣で光源氏の母・桐壺更衣の住居が淑景舎。 弘徽殿には、朱雀帝の母・弘徽殿女御が居住。 飛香舎には、桐壺更衣亡き後、桐壺帝の後妻となった藤壺中宮が住んだ。 |
京都御所は、1869年(明治2年)まで、天皇が住まいする内裏があった所。 |
紫宸殿は、天皇の即位・元服・立太子・節会などの儀式が執り行われた場所。 |
清涼殿は、平安中期以降、天皇の住まいとして使用されてきた御殿。 |
京都市中京区聚楽廻西町 |
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