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紫宸殿(ししんでん)は、内裏の殿舎の一つ。 天皇の私的な在所だったが、平安時代中期以降、大極殿や豊楽殿の衰亡により、即位の礼や大嘗祭などの行事が紫宸殿で行われるようになる。 内裏は、1177年(安元3年)の安元の大火で焼失後、再建されることはなかったが、紫宸殿は臨時の皇居である里内裏で再建されている。 天皇の居所である清涼殿に対し、紫宸殿は公的な意味合いが強かった。 紫式部の『源氏物語』では、朱雀帝が元服した所。 |
平安時代の即位の礼は、原則として平安宮朝堂院の大極殿で行われた。 ただ、冷泉天皇は病気だったため内裏の紫宸殿で即位し、これが紫宸殿での即位の礼の最初となる。 大極殿は1176年(安元2年)の焼失後、再建されなかったため、室町中期の後土御門天皇までは太政官庁を使用(安徳天皇は紫宸殿で即位)。 後柏原天皇以降は紫宸殿(京都御所)が使用され、昭和天皇まで続いた。 |
和泉式部に恋をした平井保昌は、 「私と結婚したいのなら紫宸殿の梅の枝を持ってくるように」 と言われ、警護の北面の武士に矢を射かけられながらも梅の枝を持って帰ってきたのだとか。 祇園祭の先祭に巡行する保昌山は、保昌と和泉式部の恋にまつわる伝説がテーマとなっている。 |
旧暦の9月9日は重陽の節句。 平安時代、紫宸殿では天皇が出御して重陽の節会が行われ、人々に菊酒が下賜されていたのだという。 天皇が出御しないときは、宜陽殿で菊酒が下賜されていたらしい。 |
1008年(寛弘5年)9月9日、紫式部は藤原道長の正妻・源倫子から「菊の着せ綿」を贈られている。 この年の重陽の節会は、中宮・藤原彰子の出産が間近だったため行われなかったらしい。 |
平安宮は、平安京の宮城。 |
内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮(大内裏)の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
内裏後宮・七殿五舎 |
弘徽殿 承香殿 麗景殿 登華殿 貞観殿 宣耀殿 常寧殿 |
飛香舎(藤壺) 凝花舎(梅壺) 昭陽舎(梨壺) 淑景舎(桐壺) 襲芳舎(雷鳴壺) |
紫式部の『源氏物語』では・・・ 桐壺帝の更衣で光源氏の母・桐壺更衣の住居が淑景舎。 弘徽殿には、朱雀帝の母・弘徽殿女御が居住。 飛香舎には、桐壺更衣亡き後、桐壺帝の後妻となった藤壺中宮が住んだ。 |
京都御所は、1869年(明治2年)まで、天皇が住まいする内裏があった所。 |
紫宸殿は、天皇の即位・元服・立太子・節会などの儀式が執り行われた場所。 |
清涼殿は、平安中期以降、天皇の住まいとして使用されてきた御殿。 |
京都市上京区田中町 浄福寺西入田中町 |
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