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清涼殿(せいりょうでん)は、内裏の殿舎の一つで天皇の居所。 平安初期は仁寿殿や常寧殿が天皇の居所として使用されていたが、平安中期になると清涼殿が天皇の御殿とされるようになる。 紫宸殿が儀式を行う殿舎であるのに対し、日常の政務や四方拝・小朝拝・叙位・除目などの諸公事が行われた。 ただ、後朱雀天皇以降は、天皇の居所として里内裏が用いられるようになり、次第に儀式の場としての色彩を強め、中世以降は常御所が天皇の居所となっている。 一条天皇の時代に秀才として知られた四納言の一人・藤原公任は清涼殿で元服しているらしい。 紫式部の『源氏物語』では、光源氏が元服した所。 「紅葉賀の巻」では、懐妊した桐壺帝の女御・藤壺の前で光源氏と頭中将が「青海波」を舞った。 ただ、藤壺が懐妊したのは桐壺帝の子ではなく光源氏の子・・・ |
930年(延長8年)6月26日、平安宮の清涼殿に落雷。 901年(延喜元年)1月25日、藤原時平の讒言で大宰府に左遷となり、2年後の903年(延喜3年)2月25日、太宰府で死去した菅原道真の祟りと騒がれたのだという。 |
道真の祟りを鎮めようとした朝廷が建立したのが、道真を祭神とする北野天満宮。 神号は、一条天皇から与えられたもの。 |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 藤原兼家は邸宅の一部を清涼殿に模して建て替えたため、非難されたのだとか。 |
寛和の変は、986年( 寛和2年)、藤原兼家が三男・道兼を使って花山天皇を出家させた事件。 兼家の長男・道隆は、次男の道綱とともに清涼殿の三種の神器を凝花舎(皇太子の居所)へ移し、懐仁親王(一条天皇)を即位させた。 |
平安宮は、平安京の宮城。 |
内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮(大内裏)の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
内裏後宮・七殿五舎 |
弘徽殿 承香殿 麗景殿 登華殿 貞観殿 宣耀殿 常寧殿 |
飛香舎(藤壺) 凝花舎(梅壺) 昭陽舎(梨壺) 淑景舎(桐壺) 襲芳舎(雷鳴壺) |
紫式部の『源氏物語』では・・・ 桐壺帝の更衣で光源氏の母・桐壺更衣の住居が淑景舎。 弘徽殿には、朱雀帝の母・弘徽殿女御が居住。 飛香舎には、桐壺更衣亡き後、桐壺帝の後妻となった藤壺中宮が住んだ。 |
京都御所は、1869年(明治2年)まで、天皇が住まいする内裏があった所。 |
紫宸殿は、天皇の即位・元服・立太子・節会などの儀式が執り行われた場所。 |
清涼殿は、平安中期以降、天皇の住まいとして使用されてきた御殿。 |
京都市上京区田中町 新出水通 |
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