紫式部「光る君へ」


藤原道綱
藤原兼家の次男
母は蜻蛉日記の作者


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 藤原道綱(ふじわらのみちつな)は、藤原兼家の次男。

 母は『蜻蛉日記』の作者で藤原道綱母と呼ばれている。

 正妻の時姫が産んだ兄・道隆や弟の道兼道長に比べて昇進は遅れた。

 986年( 寛和2年)、寛和の変では、兄道隆ととともに清涼殿の三種の神器を凝花舎(皇太子の居所)へ移す役割を果たし、公卿に列したが・・・

 出世の遅れは母が異なることだけが理由ではなく、政治の能力が欠けていたともいわれる。

 に溺愛されて育ったらしい・・・

 道長の妻・源倫子と道綱の妻が姉妹だったことで、道長の時代には大納言に昇進するが、出世はここまでだった。

 1020年(寛仁4年)10月15日、薨去(享年66)。




平安宮 内裏 清涼殿跡
リンクボタン清涼殿跡
(平安宮)
清涼殿
リンクボタン清涼殿
(京都御所)


 道綱が三種の神器を持ち出したのは平安宮清涼殿

 京都御所清涼殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。





法性寺
リンクボタン法性寺

 法性寺は、藤原忠平が創建した藤原氏の氏寺。

 1020年(寛仁4年)、病となった道綱は法性寺で出家し、2日後に亡くなったのだという。





~寛和の変の黒幕は藤原詮子という噂~

 『扶桑略記』や『愚管抄』によると、厳久という僧も寛和の変に大きく関わっている。

 厳久は、懐仁親王の母・藤原詮子に従属していた僧なのだとか。



リンクボタン寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは?





~紫式部の父・藤原為時~

 花山天皇が東宮(皇太子)の時から教育係として仕えていた紫式部の父・藤原為時は、寛和の変によって官職のない「散位」の時代を十数ほど過ごすこととなる。



リンクボタン花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~





~道綱の母~

 道綱の母は、正妻の時姫と競い合っていたことが『蜻蛉日記』に書かれている。



リンクボタン藤原時姫と藤原道綱母~蜻蛉日記:兼家の愛人と和歌~

リンクボタン賀茂祭の連歌対決~蜻蛉日記:藤原時姫と藤原道綱母~

リンクボタン藤原道綱母の歌~嘆きつつひとり寝る夜 夫兼家への皮肉の歌~





一条邸跡
リンクボタン一条邸

 一条戻橋の東には藤原道綱母の父倫寧の邸宅・一条邸があって、道綱はここで育った。

 のちに源頼光に譲られたが、頼光の娘を娶った道綱は頼光の所有となってからも居住していたのだという。





~道綱の娘・豊子~

 道綱の娘・藤原豊子は、一条天皇の中宮・藤原彰子に仕え、紫式部赤染衛門と親交。

 彰子が第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)を出産すると、娘とともに乳母を務めている。



リンクボタン道長から賀の歌を求められる紫式部

リンクボタン御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長










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