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藤原為時は、菅原文時(菅原道真の孫)に師事し、大学寮では紀伝道を専攻。 和歌・漢学・漢詩に秀でた当代有数の文章生(文人)だった為時は、冷泉天皇の第一皇子・師貞親王(のちの花山天皇)の教育係に抜擢される。 977年(貞元2年)の師貞親王の読書始では副侍読を務めた。 読書始(どくしょはじめ)は、皇族や貴族の子弟が初めて読み方を授けられる儀式。 侍読(じどく)は、天皇や東宮のそばに仕えて学問を教授する学者のこと。 984年(永観2年)、師貞親王が即位して花山天皇が誕生すると、為時は式部丞・六位蔵人に任じられ、後の出世も期待されたが・・・ 985年( 寛和元年)、寵愛していた女御の藤原忯子を亡くして落胆していた花山天皇は、986年(寛和2年)6月23日、藤原兼家・道兼父子の策略により元慶寺で出家しまう。 花山天皇の退位により官職を辞した為時は、996年(長徳2年)に越前守に任じられるまで散位の時が続くこととなる。 散位は、位階だけで官職のない者のこと。 参考までに・・・ 娘の紫式部の「式部」の名は、為時が花山天皇の時代に任じられた「式部丞」に由来しているとするのが通説。 |
花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
996年(長徳2年)、藤原為時は越前守に叙任されて越前国へ下向. 紫式部も同行した。 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
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