紫式部「光る君へ」


藤原忯子
花山天皇が寵愛した女御


編集:yoritomo-japan.com








 藤原忯子(ふじわらのしし・よしこ)は、藤原為光の娘。

 母は藤原敦敏の娘。

 984年(永観2年)、花山天皇に望まれて入内し、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と呼ばれる。

 忯子の実姉は、花山天皇の外戚として権勢を奮った藤原義懐の正室だった。

 義懐が忯子の父・為光を説得して入内が叶ったのだという。

 その後、花山天皇の寵愛を受けた忯子は懐妊するが、985年( 寛和元年)7月18日に急死。

 忯子の死後、悲しみのあまり出家を考えるようになった花山天皇は・・・

 藤原兼家の謀略にかかり、翌年、兼家の三男・道兼に出家を勧められ、山科の元慶寺で出家してしまう(寛和の変)。




平安宮内裏弘徽殿跡
リンクボタン平安宮内裏弘徽殿跡

 忯子が居所とした弘徽殿は、内裏の後宮七殿五舎の一つで後宮で最も格の高い殿舎。

 紫式部『源氏物語』では、朱雀帝の母・弘徽殿女御や、その妹の朧月夜が居住している。




法性寺
リンクボタン法性寺

 藤原氏の氏寺・法性寺では、忯子の四十九日法会が営まれている。



法住寺
リンクボタン法住寺

 法住寺は、忯子の父・藤原為光が妻と忯子の菩提を弔うために創建。

 忯子の兄藤原斉信の娘は法住寺に葬られている。



~忯子は何故死んだ?~

リンクボタン藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~





元慶寺
リンクボタン元慶寺

 花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。



十二妃の墓
リンクボタン十二妃の墓
(花山院菩提寺)

 晩年、花山法皇が隠棲した花山院菩提寺の麓には、藤原忯子と仕えていた11人の女官の十二妃の墓が建てられている。



リンクボタン花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~

リンクボタン大鏡が伝える寛和の変~藤原道兼に騙された花山天皇~

リンクボタン寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは?










~忯子の妹と長徳の変~

 忯子の妹の一人・三の君(寝殿の上)は、藤原伊周の思い人。

 もう一人の妹・四の君(藤原儼子)は、出家した花山法皇が通っていた娘。

 996年(長徳2年)1月16日、伊周と弟の隆家花山法皇を襲った長徳の変は・・・

 花山法皇が四の君のところに通っているのを、三の君のところに通っていると勘違いして起こったのだという。



一条院跡
リンクボタン一条院跡

 一条院は、佐伯公行が三の君(寝殿の上)から取得し、一条天皇の生母・藤原詮子に献上されたのだという。





~道長の妾になった四の君~

 花山法皇の崩御後、四の君(藤原儼子)は、藤原道長の次女・妍子に仕え、その後、道長の妾になっている。

 1016年(長和5年)1月21日、道長の子を産んだが死産で母子ともに死去。





~花山法皇の御所と陵墓~

花山院邸跡
リンクボタン花山院跡

 出家した花山天皇は、花山院を御所とした。



花山天皇紙屋川上陵
リンクボタン花山天皇紙屋川上陵

 花山法皇は、法音寺の北に葬られた。



法音寺
リンクボタン法音寺

 法音寺は、花山天皇(花山法皇)の勅願寺。

 「山城名勝志」によると、法音寺は大北山の施無畏寺跡の南にあったのだという。










紫式部


紫式部と越前国


源氏物語 光源氏


紫式部の京都 平安宮~源氏物語ゆかりの地~


琵琶湖で紫式部・源氏物語 源氏物語~須磨・明石~


宇治十帖~紫式部『源氏物語』~ 源融・藤原実方ゆかりの陸奥国


紫式部年表



藤原道長


藤原彰子



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~



葵祭

祇園祭

時代祭




紫式部・源氏物語・光る君へ
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。