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藤原実資の『小右記』によると・・・ 藤原忯子は、984年(永観2年)10月28日に入内し、11月7日に花山天皇の女御となった。 間もなく懐妊したようだが、 『栄花物語』によると・・・ 懐妊3か月の頃に忯子の父・為光は里下がりを花山天皇に奏上したが認められなかったのだという。 (宮中では穢れを避けるため、出産は里(実家)で行うのが慣例だった) 『小右記』によると・・・ 懐妊5ヶ月が経った985年(寛和元年)5月11日、宮中の桂芳坊で修法が行われ、実資は例がないとして非難している。 (修法(加持祈祷)は、里で行うのが通例だった) 『栄花物語』によると・・・ 懐妊5ヶ月になってようやく里下がりが許されたが、容体が悪化。 そんな忯子を、花山天皇は会いたいあまりに無理に参内させたのだとか。 為光は泣く泣く花山天皇に訴え、輦車で退出させたのだという。 『小右記』によると・・・ 985年( 寛和元年)7月18日、懐妊7ヶ月で薨去(17歳)。 |
大内裏(宮城)は、牛車で入ることを禁じられていた場所。 忯子が退出するときに使った輦車(れんじゃ・てぐるま)は、勅許を得た人力による車。 |
法性寺で営まれた忯子の四十九日法会での為光の願文には・・・ 鍾愛する娘で妃にするつもりで大事に育てた。 16歳で入内して花山天皇の寵愛を受けて懐妊したが、許しがなく、なかなか里下がりできなかった。 娘は病になり、重くなるばかり。 花山天皇からの使者は引きも切らさず、手紙も数えきれないほど届いたが、7月に娘は死去した・・・ といった事が記されている。 |
忯子の四十九日法会が営まれた法性寺は、924年(延長2年)に藤原忠平によって創建され、藤原氏の氏寺として栄えた寺院。 |
法住寺は、忯子の父・藤原為光が989年(永祚元年)妻と忯子の菩提を弔うために創建。 忯子の兄藤原斉信の娘は法住寺に葬られている。 |
忯子の死の翌年、花山天皇は元慶寺で出家(寛和の変)。 傷心の花山天皇につけこんだ藤原兼家と子道兼による謀略と伝えられている。 |
寛和の変の黒幕は…懐仁親王の母・藤原詮子か?厳久とは? 大鏡が伝える寛和の変~藤原道兼に騙された花山天皇~ 花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ |
出家した花山天皇は、比叡山の戒壇院で受戒して法皇となる。 晩年、花山法皇が隠棲した花山院菩提寺の麓には、藤原忯子と仕えていた11人の女官の十二妃の墓が建てられている。 |
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