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法住寺は、989年(永祚元年)、藤原為光が985年(寛和元年)に亡くなった夫人と息女・忯子(花山天皇女御)の菩提を弔うために創建された天台宗の寺院。 992年(正暦3年)、為光が薨去した後の法住寺は、子の尋光が管理。 1025年(万寿2年)には、為光の次男・藤原斉信が娘の葬送・埋葬を営んでいる。 本尊は不動明王。 |
985年(寛和元年)、寵愛していた忯子を亡くした花山天皇は、翌年、藤原兼家・道兼父子の謀略により元慶寺で出家(寛和の変)。 やがて比叡山の戒壇院で受戒して法皇となる。 晩年、花山法皇が隠棲した花山院菩提寺の麓には、藤原忯子と仕えていた11人の女官の十二妃の墓が建てられている。 |
藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
1158年(保元3年)、法住寺を中心に後白河法皇の院庁「法住寺殿」が造営された。 しかし、1183年(寿永2年)に木曽義仲の夜襲をうけ、法皇は六条西洞院の長講堂に移っている。 1191年(建久2年)、源頼朝が法住寺殿を再建したが、法皇は翌年3月13日、長講堂で崩御。 法住寺殿の一画には法華堂が建てられ、法皇の御陵となった。 以後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として存続したが、明治の神仏分離により御陵と寺が分離されている。 |
門の奥にあるのが後白河法皇が葬られた法華堂。 かつては後白河法皇に寵愛された妃・建春門院滋子の法華堂と並んでいたのだという。 |
後白河法皇の院御所「法住寺殿」の再建 源頼朝が鎌倉で行なった後白河法皇の法要 |
本尊の不動明王像は、第三代天台座主・円仁(慈覚大師)の造立と伝えられ、木曽義仲が法住寺殿を襲撃したときには後白河法皇の身代りとなったと伝えられている尊像。 法住寺合戦では天台座主(延暦寺の貫主)だった明雲が討たれるが、法皇は「不動尊が明雲となって我が身を救ってくれた」と涙をこぼしたのだという。 赤穂の浪士の大石内蔵助が祈願して大願成就したことでも知られている(参考:高輪泉岳寺)。 |
三十三間堂 |
法住寺殿跡碑 |
三十三間堂は、法住寺殿の一画に建てられた蓮華王院の本堂。 堂内には1001体の「木造千手観音立像」が安置されている。 |
後白河法皇が崩御した長講堂は、1183年(寿永2年)の木曽義仲の夜襲で法住寺殿が損傷した後に、六条殿内に造営された創建された持仏堂。 |
京都市東山区三十三間堂廻り町655 JR京都駅から市内循環バス 「博物館三十三間堂前」下車。 |
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