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藤原為光(ふじわらのためみつ)は、右大臣・藤原師輔の九男。 母は醍醐天皇の十皇女・雅子内親王。 異母兄の藤原兼家と摂関の地位を争った公卿。 |
藤原忠平 |
藤原師輔 |
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藤原兼通と藤原兼家~兄兼通に左遷された弟兼家~ |
984年(永観2年)、春宮大夫として仕えてきた師貞親王(花山天皇)が即位すると、次女の忯子を入内させる。 忯子は、花山天皇の寵愛を受けて懐妊したが、985年( 寛和元年)7月18日に急死。 さらに、翌986年(寛和2年)6月23日、花山天皇が兼家とその子・道兼の謀略により山科の元慶寺で出家してしまう(寛和の変)。 この政変で一条天皇が即位し、兼家が摂政に就任したことで、為光の摂関への望みは絶たれた。 ただ、円融法皇から信頼を得ていた左大臣・源雅信の存在で全権を奮うに至らない兼家は、為光と連携して為光を右大臣としている。 991年(正暦2年)には、関白・藤原道隆の推挙で太政大臣となるが、翌992年(正暦3年)6月16日薨去(享年51)。 |
花山天皇が元慶寺で出家すると、花山天皇に信頼されていた為光の婿・藤原義懐も出家している。 陰陽師の安倍晴明は、天変により花山天皇が退位することを知っていたのだとか・・・ |
花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ |
法性寺は、924年(延長2年)に藤原忠平によって創建され、藤原氏の氏寺として栄えた寺院。 忯子の四十九日法会が営まれている。 |
法住寺は、為光が忯子の菩提を弔うために創建した寺院。 忯子の兄で為光の次男・藤原斉信の娘も法住寺に葬られている。 1158年(保元3年)、後白河法皇は法住寺を中心に院庁「法住寺殿」を造営。 |
藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
為光の邸宅だった一条院は、為光の死後、兼家の娘・詮子に献上された。 内裏焼失後、詮子は御所として修造し、一条天皇の里内裏として使用されている。 |
為光の三女・寝殿の上は源雅信の妻、のちに藤原伊周の妾。 四女・藤原儼子は花山法皇の愛人。 この二人めぐって996年(長徳2年)1月16日に起こったのが、伊周が花山法皇を襲撃した長徳の変。 伊周と花山法皇は同じ頃に為光の娘のところに通っていたが、伊周は花山法皇が寝殿の上のところに通っていると勘違いしてしまったのだとか。 儼子は、花山法皇の崩御後、藤原妍子の女官となり藤原道長の妾となっている。 |
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