花山天皇の退位を知っていた 安倍晴明~寛和の変~ |
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陰陽師・安倍晴明は、986年(寛和2年)6月23日の寛和の変を天文観測(占い)によって知っていたのだとか。 寛和の変は藤原兼家の命を受けた三男・道兼が元慶寺で花山天皇を出家させ、一条天皇を即位させた政変。 6月23日夜明け前、内裏を抜け出した花山天皇は、道兼とともに山科の元慶寺に向かう。 途中で安倍晴明の屋敷前を通ると・・・ 「天空に天皇が御退位されるという現象が起こった。 ただ、既に御退位は決まってしまったらしい」 という晴明の声がした。 そして、晴明にすぐに宮中へ参るよう命じられていた式神が・・・ 「天皇は、今、この前をお通りになったようです」 と伝えたのだとか。 |
寛和の変で花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
大鏡が伝える寛和の変~藤原道兼に騙された花山天皇~ |
晴明神社は、一条天皇が晴明の偉業を讃えるため、晴明の屋敷跡に創建した社。 |
晴明は、式神に術を施して自在に操ったのだという。 用のない時には、一条戻橋の石櫃に閉じ込めていたのだという。 |
晴明は、1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没したといわれ、嵯峨に葬られたのだと伝えられている。 墓所では、命日には嵯峨墓所祭が斎行されている。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 平安時代の内裏(御所)は、京都御所の西方にあった。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
京都御所は、もとは里内裏の土御門東洞院殿。 1331年(元弘元年)、光厳天皇が土御門東洞院殿で即位。 以後、1869年(明治2年)に明治天皇が東京に移るまでの約500年間、天皇の御所として使用された。 |
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