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藤原兼通と藤原兼家は、藤原師輔の子で同母の兄弟。 父亡き後、長兄の伊尹に厚遇された兼家が、次兄の兼通より出世が早かったことで、伊尹亡き後、二人の確執が顕著になる。 伊尹の死後、関白の地位を継いだ兼通は、兼家の昇進を止め、異母弟の為光を兼家の上位に就けた。 これに対し兼家は、円融天皇の中宮媓子(兼通の娘)に対抗して娘の詮子を入内させようとするが、これを兼通は激しく妨害。 詮子が入内すると思っていた円融天皇は、 「詮子を入内させないのは、超子が生んだ子に皇位継承させたいからだ」 と考え、兼家を遠ざけ、兼通を重用するようになる。 円融天皇は、兄の冷泉上皇の皇子・居貞親王が成長するまでの中継ぎの天皇だったらしい。 |
※ | 居貞親王は冷泉天皇の第二皇子で母は超子(のちの三条天皇)。 |
977年(貞元2年)10月、兼通が重病になると、兼家は東三条殿から後任を奏請するため内裏へと向かった。 兼家は東三条殿は、兼通の堀河殿の東にあって、閑院を間に挟んだ近接地にあった。 兼家が東三条殿を出たことを知った兼通は、自分の見舞いに来るのだと思っていたらしい。 しかし、兼家の車は堀河殿を通り過ぎ内裏へ向かってしまった。 激怒した兼通は、病を押して起き上がり、四人に支えられながら参内。 驚いた兼家は逃げてしまったのだという。 そして、兼通は左大臣の頼忠(兼通・兼家の従兄)を後任とする除目を行い、兼家の右近衛大将の職を解いて治部卿へ降格させた。 兼通は、居並ぶ公卿に「大将になりたい者はいないか」と問うと、藤原済時だけが進み出てきたのだという。 |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 平安時代の内裏(御所)は、京都御所の西方にあった。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 平安宮は、1227年(安貞元年)の火災で全焼した後は再建されなかった。 |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 藤原兼家の時代に最大となり、兼家は「東三条殿」と呼ばれていた。 兼家の次女・藤原詮子は、東三条殿で懐仁親王(一条天皇)を産んでいる。 |
堀河院(堀河殿)は、兼家の兄・兼通が所有した邸宅。 円融天皇は、内裏が焼失した際、堀河殿を里内裏とした。 遠ざけていた兼家の邸宅・東三条殿を里内裏とはしなかった・・・ |
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