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堀河院(堀河殿)は、平安前期に藤原基経が用いた邸宅。 基経の祖父・冬嗣の邸宅・閑院の西にあった。 平安中期には、藤原兼通が改修し、内裏焼失の際には円融天皇が里内裏とし、これが里内裏の初例となった。 円融天皇は花山天皇に譲位した後も堀河殿を院御所としたのだという。 997年(長徳3年)には藤原顕光の長女で一条天皇の女御だった藤原元子の里邸となり、三条天皇の第一皇子・敦明親王の妃となった次女の藤原延子もここに住んだ。 顕光の死後は、藤原頼通の所有となり、師実・師通・忠実に伝領された後、堀河天皇の中宮・篤子内親王に献上されたらしい。 白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇の里内裏にもなるが、特に堀河天皇は、ここで成長・受禅・崩御している。 |
※ | 兼通の娘・媓子は円融天皇の中宮。 |
※ | 顕光は、堀河院を改修した兼通の長男。 |
東三条殿は、堀河殿の東にあった藤原兼家の邸宅。 兼家を遠ざけ、兄の兼通を重用していた円融天皇は、兼通亡き後も兼家への依存を拒み、堀河殿を里内裏としたらしい。 |
藤原兼通と藤原兼家~兄兼通に左遷された弟兼家~ |
閑院は、堀河殿と東三条殿の中間にあった邸宅。 閑院に住んでいた兼通の子・朝光は、堀河殿の円融院と閑院に咲く桜をめぐって和歌のやり取りをしたのだという。 |
藤原顕光の次女・延子は、三条天皇の第一皇子・敦明親王の妃で、二人は堀河殿で暮らしていたが・・・ 藤原道長が三女の寛子を敦明親王に嫁がせたことで、敦明親王は寛子の高松殿に移ってしまう。 そのため、延子は病となり死去。 2年後には顕光も死去するが、顕光の死後、道長の娘たち(寛子・嬉子・妍子)が立て続けに亡くなり、顕光と延子の祟りと恐れられたのだという。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
高松神明神社は、高松殿の鎮守。 寛子の母・源明子は、高松殿に住んで「高松殿」と呼ばれ、寛子は「高松殿女御」と呼ばれた。 |
『宇治拾遺物語』に「盗人の長にてぞありける」と書かれた盗賊・藤原保輔は、988年(永延2年)、藤原顕光の屋敷に籠居していたところを捕縛されたらしい。 なぜ、盗賊が顕光邸に籠居していたのだろうか? |
京都市中京区 京都堀川音楽高等学校の正門前 |
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