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藤原元子(ふじわらのげんし・もとこ)は、左大臣・藤原顕光の長女。 母は盛子内親王(村上天皇皇女)。 生没年不詳。 996年(長徳2年)11月、一条天皇に入内。 この年、藤原伊周が長徳の変を起こして失脚。 そのため、伊周の妹で中宮の藤原定子が内裏を出ていたこともあり、元子はそれなりの寵愛を受けていたらしい。 |
元子が居所としたのは承香殿。 内裏の後宮七殿五舎の一つで、七殿の中では弘徽殿についで格式の高い殿舎。 斎宮女御と呼ばれた村上天皇の女御・徽子女王が住居とした所。 |
翌年、元子は懐妊。 元子は承香殿から堀河院に移ることとなるが・・・ 一行が弘徽殿の細殿を通るところを、藤原義子の女房たちが群がり御簾越しに見物していた。 元子の侍女がこれを見て 「簾のみ孕みたるか」 (弘徽殿女御(義子)は懐妊しないで、簾のみが膨らんでいる) と言って嘲弄したのだという。 しかし・・・ 出産を迎えた元子の腹からは水が流れ出るばかりで、とうとう赤子は出てこなかった。 出産にあたって大騒ぎをしていた顕光と元子は、世間の嘲笑を受けたのだとか。 |
弘徽殿は後宮で最も格の高い殿舎。 藤原義子は、太政大臣・藤原公季の長女で、母は有明親王女。 元子と同じ年に一条天皇に入内した義子は弘徽殿を居所としていた。 |
堀河院(堀河殿)は、藤原顕光が伝領した邸宅。 |
その後、元子は懐妊することがなく、一条天皇は1011年(寛弘8年)に崩御。 一条天皇の亡き後、元子は源頼定と密通。 怒った顕光は元子の髪を切って出家させるが、元子は頼定と駆け落ちして二女を儲けたのだとか。 頼定は、村上天皇の第二皇子・為平親王の子。 美貌の貴公子で、清少納言の『枕草子』に登場する「宮の中将」は頼定のことらしい。 頼定は、藤原兼家の三女・藤原綏子とも密通事件を起こしている。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
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