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藤原顕光(ふじわらのあきみつ)は、関白太政大臣・藤原兼通の長男。 母は、昭子女王(元平親王の娘)。 944年(天慶7年)誕生。 左大臣にまで昇るが無能で、従兄弟の藤原道長からは「至愚の又至愚なり」と罵倒され、藤原実資や藤原行成などからも批判される人物だったらしい。 |
974年(天延2年)、父・兼通が関白に叙任されると、顕光も昇進を続けて公卿に列したが・・・ 977年(貞元2年)、兼通が死去し、叔父の藤原兼家に実権を奪われると兼家の子道隆・道兼・道長に追い抜かれている。 990年(正暦元年)に兼家が死去し、995年(長徳元年)に道隆・道兼がたて続けに死去すると、権大納言に昇進。 この昇進は疫病で多くの官吏が病没してしまったためといわれる。 翌年、道長と政権を争った伊周が長徳の変を起こして失脚すると、道長は左大臣に、顕光は右大臣となったが、実権は道長が完全に掌握していた。 |
996年(長徳2年)、右大臣となった顕光は、長女の元子を一条天皇に入内させる。 中宮の藤原定子が兄の伊周の失脚により内裏を出ていたこともあり、元子はそれなりの寵愛を受けて翌年には懐妊。 懐妊した元子は承香殿から堀河院に移ることとなるが、このとき一行が弘徽殿の細殿を通ると藤原義子の女房たちが群がり御簾越しに見物していた。 元子の侍女がこれを見て「簾のみ孕みたるか」(弘徽殿女御(義子)は懐妊しないで、簾のみが膨らんでいる)と言って嘲弄したのだという。 義子は元子と同じ年に一条天皇に入内していたが子はいなかったらしい。 しかし、出産を迎えた元子の腹からは水が流れ出るばかりで、とうとう赤子は出てこなかった。 出産にあたって大騒ぎをしていた顕光と元子は、世間の嘲笑を受けたのだとか。 その後、元子が懐妊することはなく・・・ 999年(長保元年)、道長の長女・彰子が入内。 1008年(寛弘5年)には、彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を、その翌年には敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産したことで、顕光の一条天皇の外戚となる夢は絶たれた。 1011年(寛弘8年)、一条天皇が崩御して三条天皇が即位。 彰子が産んだ敦成親王が東宮(皇太子)となっている。 一条天皇の亡き後、元子は源頼定と密通。 怒った顕光は元子の髪を切って出家させるが、元子は頼定と駆け落ちして二女を儲けている。 この間の1001年(長保3年)、顕光の長男・重家は、一条朝の四納言と呼ばれた源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成の議論を見て、自らの非才を覚り、園城寺で出家している。 |
源頼定は、村上天皇の第二皇子・為平親王の子。 美貌の貴公子で、清少納言の『枕草子』に登場する「宮の中将」は頼定のことらしい。 頼定は、藤原兼家の三女・藤原綏子とも密通事件を起こしている。 |
顕光の次女・延子は、三条天皇の第一皇子・敦明親王と結婚していたが・・・ 1016年(長和5年)、三条天皇が後一条天皇(敦成親王)に譲位すると、東宮(皇太子)には敦明親王が立てられることに。 翌年、顕光は左大臣となるが、道長に圧力をかけられた敦明親王は東宮を辞退。 さらに道長が敦明親王に三女の寛子を嫁させたことで、敦明親王は延子のもとを去ってしまう。 絶望した延子は、1019年(寛仁3年)に亡くなっている。 この事件で顕光は道長を呪詛させたともいわれるが、左大臣には留まり、1021年(治安元年)5月25日に薨去(78歳)。 顕光の死後、道長の娘たち(寛子・嬉子・妍子)が立て続けに亡くなり、顕光と延子の祟りと恐れられたのだという。 そのため、顕光は悪霊左府と呼ばれるようになったのだとか。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
堀河院(堀河殿)は、藤原顕光が伝領した邸宅。 娘の元子・延子もここで暮らしていた。 988年(永延2年)、盗賊の長だった藤原保輔は顕光邸に籠居していたところを捕縛されたのだという。 |
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