藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
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藤原顕光は、左大臣にまで昇ったが、藤原道長をはじめ藤原実資や藤原行成などから無能と批判されていたという公卿。 次女の藤原延子は、三条天皇の第一皇子・敦明親王の妃。 三条天皇が譲位すると、敦明親王は東宮(皇太子)に立てられるが、道長は圧力をかけて東宮を辞退させ、三女の寛子を嫁がせた。 そのため、延子と堀河殿(堀河院)で暮らしていた敦明親王は、堀河殿を出て、寛子の高松殿へ移ってしまう・・・ 延子は、悲嘆のあまりに病に伏し、1019年(寛仁3年)に亡くなっている。 2年後の1021年(治安元年)には顕光が薨去。 二人の死後に起こったのが道長の娘たちの死。 1025年(万寿2年)、延子から敦明親王を奪った藤原寛子が病死。 同年、六女で敦良親王(のちの後朱雀天皇)の妃・藤原嬉子が出産直後に急死。 敦良親王は、敦明親王が東宮を辞退したことで東宮となっていた。 1027年(万寿4年)、次女で三条天皇の中宮だった藤原妍子が崩御。 道長の娘たちの死は、顕光と延子の怨霊の祟りと恐れられたのだという。 道長は・・・ 妍子の四十九日法要が営まれた10月28日の夜から床に伏し、12月4日、法成寺で薨去。 |
藤原道長の出家と最期 |
堀河院(堀河殿)は、藤原基経が邸宅としたのが始まりで、顕光や娘の元子や延子もここに住んだ。 顕光の死後、堀河院は藤原頼通の所有となり、師実・師通・忠実に伝領された後、堀河天皇の中宮・篤子内親王に献上されたらしい。 |
高松神明神社は、高松殿の鎮守。 寛子の母・源明子は、高松殿に住んで「高松殿」と呼ばれ、寛子は「高松殿女御」と呼ばれた。 |
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