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藤原朝光(ふじわらのあさてる・あさみつ)は、関白太政大臣・藤原兼通の四男。 母は有明親王の娘昭子女王。 951年(天暦5年)誕生。 円融天皇に近侍して昇進するが、977年(貞元2年)、父の兼道が亡くなると昇進が停滞し、叔父の藤原兼家や源重信に昇進で先を越されている。 984年(永観2年)、長女・姚子を花山天皇の女御として入内させたが、姚子は1か月ほどで退出してしまったのだという。 986年(寛和2年)、一条天皇が即位すると大納言に任ぜられるが、兼家の長男・道隆にも先を越され、995年(長徳元年)3月20日、大納言を極官として没した(45歳)。 |
朝光が亡くなった995年(長徳元年)は、疫病が大流行した年。 4月10日には藤原道隆、4月23日には藤原済時、5月8日には藤原道兼が亡くなっている。 |
酒好きだった藤原道隆~酒の飲みすぎで亡くなった関白~ |
朝光の父・兼通と叔父の兼家は同母の兄弟だったが・・・ 長兄の伊尹が兼家を厚遇したことから、次兄の兼通より出世が早かったらしい。 そのため、伊尹亡き後、二人の確執が顕著になっている。 |
藤原兼通と藤原兼家~兄兼通に左遷された弟兼家~ |
堀河院(堀河殿)は、朝光の兄・顕光が伝領した邸宅。 兼家を遠ざけていた円融天皇は、内裏が焼失した際、東三条殿ではなく堀河殿を里内裏とした。 退位後も堀河殿を院御所としている。 |
朝光は、閑院を伝領したことから、閑院大将・閑院大納言と称された。 歌才があり、堀河殿を院御所としていた円融院と閑院に咲く桜をめぐって和歌のやり取りをしたのだという。 閑院は、堀河殿と東三条殿の中間にあった邸宅。 |
円融院の子日の御遊と円融院葬送の歌~藤原朝光・藤原行成・藤原実方~ |
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