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藤原済時(ふじわらのなりとき)は、左大臣・藤原師尹の次男。 母は藤原定方の九女。 941年(天慶4年)6月10日誕生。 父の師尹が969年(安和2年)の安和の変で源高明に代わって左大臣になると右近衛中将に昇進。 同年、円融天皇が即位すると従三位に叙せられ公卿に列した。 その後も順調な昇進を続け、977年(貞元2年)には関白・藤原兼通が弟の兼家から取り上げた右近衛大将に任じられた。 (参考) 藤原兼通と藤原兼家~兄弟の確執~ 991年(正暦2年)には正二位・大納言となるが、995年(長徳元年)4月23日、大流行していた疱瘡により薨去(享年55)。 1012年(長和元年)、娘の娍子が三条天皇の皇后となったことにより右大臣を追贈されている。 |
済時が亡くなった995年(長徳元年)は、疫病が大流行した年。 3月20日には藤原朝光、4月10日には藤原道隆、5月8日には藤原道兼が亡くなっている。 |
酒好きだった藤原道隆~酒の飲みすぎで亡くなった関白~ |
986年(寛和2年)6月18日、清少納言は小白河の済時の屋敷(小白河殿)で行われた法華八講を聴聞している。 『枕草子』には・・・ のちに関白となる藤原道隆や藤原義懐が素晴らしかったことや、義懐と清少納言が言葉を交わしたことなどが記されている。 それから5日後の6月23日、花山天皇が元慶寺で出家(寛和の変)。 花山天皇のもとで権勢を奮っていた義懐も出家している。 |
白河の地には、藤原良房の別荘「白河殿」があった。 摂関家が継承し、藤原道長や藤原頼通も所有した。 道長の時代には、済時や藤原公任も白河に別業を設け「小白河殿」と呼ばれていたらしい。 頼通の子師実の代に白河天皇に献上されて白河院となり、白河院には法勝寺が建立されている。 |
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