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白河院は白河天皇の御所。 もとは藤原良房の別荘「白河殿」。 白河殿は、白河別業・白河第とも呼ばれ、摂関家嫡流に継承され、11世紀に入ると藤原道長が所有し、道長の没後は嫡男・頼通へ継承されている。 白河は桜の名所として知られ、道長の時代には花山天皇が、頼通の時代には後一条天皇が花見のために白河殿に行幸。 藤原済時や藤原公任も白河に別業を設け「小白河殿」と呼ばれていたらしい。 道長の長女・彰子の出家後の住まいともなり、孫の後冷泉天皇が見舞いのため行幸している。 頼通の六男・師実の代になって白河天皇に献上された。 1076年(承保3年)、白河天皇はこの地に法勝寺を建立。 1083年(永保3年)には、高さ約80メートルといわれる八角九重塔と愛染堂が完成している。 その後、白河の地には、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺が建立され六勝寺と総称された。 1185年(文治元年)の文治地震により阿弥陀堂が倒壊するなどの被害を受け、1208年(承元2年)には落雷で塔が焼失するが、栄西が大勧進となって再建された。 1342年(暦応5年)の火災で寺の南半分が失われ、円観が復興にあたるが、1349年(貞和5年)にも火災にあって北半分も失われた。 その後は衰退の一途をたどり廃寺となった。 |
奥州藤原氏二代・基衡、三代・秀衡によって多くの伽藍が造営された毛越寺は、法勝寺を模したと考えられている。 |
1204年(元久元年)、源実朝が坊門信清の息女・坊門姫を正室とする際、後鳥羽上皇は坊門姫の出発の様子を法勝寺西大路鳥居の桟敷から見物していたのだという。 坊門姫と後鳥羽上皇は従兄妹。 |
三十三間堂の本尊は、堂内の中央に安置されている千手観音坐像(国宝)。 大仏師湛慶(運慶の子)が、小仏師康円と康清を率いて法勝寺で造立に着手し、1252年(建長4年)に完成した。 |
法勝寺に住持していた円観は、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討滅を企てると、文観・忠円らとともに調伏の祈祷をして捕えられている。 鎌倉幕府滅亡後、円観は罪を赦せられて法勝寺に戻り、東大寺の大勧進職に就いている。 |
天台座主となった皇族代々の居所だった滋賀院は、1615年(元和元年)、天海が後陽成天皇から法勝寺の建物を賜って建立した寺。 |
東大寺の大勧進に任じられていた栄西は、1208年(承元2年)の落雷で法勝寺が焼失すると九重塔再建の大勧進にも任じられた。 九重塔は1213年(建保元年)に完成しているが、栄西が法勝寺再建にかかりきりだったことから、東大寺の復興は進まなかったのだとか。 |
後醍醐天皇の皇子・護良親王は、梶井門跡(現在の三千院)に入室し、比叡山延暦寺の貫主(天台座主)となり大塔宮と敬称されたのだという。 大塔とは「法勝寺の九重塔のこと」という説がある。 |
大塔宮と呼ばれた護良親王、なぜ大塔宮なのか? |
東寺五重塔 (京都) |
東大寺の東塔 (奈良) |
現存する木造塔で最も高いのは、東寺の五重塔で54.8メートル。 2024年(令和6年)、奈良の東大寺にあった東塔の高さについての研究結果がまとめられ、創建当初の高さは68メートルと特定されている。 |
円勝寺は1128年(大治3年)に鳥羽天皇の中宮・待賢門院璋子が創建。 尊勝寺は1102年(康和4年)に堀河天皇が創建。 最勝寺は1118年(元永元年)に鳥羽天皇が創建。 成勝寺は1139年(保延5年)に崇徳天皇が創建。 延勝寺は1149年(久安5年)に近衛天皇が創建。 |
六勝寺のこみちは、琵琶湖疎水に沿ってある歩道。 南禅寺橋から鴨川までの約2qの散歩道。 |
藤原定子に仕える前の986年(寛和2年)6月18日、清少納言は小白河の藤原済時の小白河殿で行われた法華八講を聴聞。 花山天皇と藤原義懐が出家する直前のことだった。 『枕草子』には・・・ のちに関白となる藤原道隆や藤原義懐が素晴らしかったことや、義懐と清少納言が言葉を交わしたことなどが記されている。 |
京都市左京区岡崎法勝寺町16 |
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