|
985年(寛和元年)2月13日、前年に花山天皇に譲位して上皇となった円融院は、紫野で盛大な「子日の御遊」を催した。 和歌を鑑賞する催しが開かれ、赤染衛門の父ともいわれる平兼盛や清少納言の父清原元輔などの著名歌人が和歌を詠んだのだという。 曽禰好忠は、催しに呼ばれていないにもかかわらず着席したが、藤原実資・藤原朝光の指図により追い出されたのだとか。 |
紫野は船岡山の麓。 清少納言の父清原元輔は、 「船岡に 若菜つみつつ 君がため 子の日の松の 千世をおくらむ」 と詠んでいる。 |
991年(正暦2年)2月12日、円融院は祈願寺の円融寺で崩御(33歳)。 円融寺の北原で火葬され、父・村上天皇陵の傍らに遺骨が葬られた。 『今昔物語集』によると・・・ 藤原朝光は葬送後に「子日の御遊」を思い出して 「紫の雲のかけても思ひきや春の霞になして見んとは」 詠んだのだという。 そして、藤原行成は 「おくれじと常のみゆきは急ぎしを煙にそはぬたびのかなしさ」 と詠んだ。 『後拾遺和歌集』にも二人の歌は並んで載せられているが・・・ ただ、朝光が詠んだとされる歌は、藤原実方の『実方集』にある歌らしい。 参考までに、『実方集』には「子日の御遊」で詠んだ 「紫の雲のたなびく松なれば緑の色もことに見えけり」 が載せられている。 また、実方は円融院の喪に際して 「墨染のころもうき世の花ざかりをり忘れても折りてけるかな」 と詠んで藤原道信に贈っている。 |
『後拾遺和歌集』などでは、「子日の御遊」が催された紫野が円融院の葬送の地とされているが、実際は円融寺に葬られた。 円融寺は、円融院の勅願寺として創建された寺。 仁和寺の一院で、仁和寺の周辺には一条天皇の円教寺、後朱雀天皇の発願で後冷泉天皇のときに完成した円乗寺、後三条天皇の円宗寺があった。 円融院の崩御後は衰退し、平安時代末、その跡地は藤原実能の山荘となり、室町時代には細川勝元が龍安寺を創建している。 |
藤原朝光は、藤原兼通の子で、堀河殿を院御所としていた円融院と閑院に咲く桜をめぐって和歌のやり取りをしたのだという。 閑院は、堀河殿と東三条殿の中間にあった邸宅。 |
藤原行成と藤原実方と言えば・・・ 『十訓抄』によると、995年(長徳元年)、実方は陸奥守として陸奥国に下向するが、左遷されたのだという。 その理由は、一条天皇の前で行成の冠を奪って投げ捨てたから。 陸奥に下った実方は帰京することなく亡くなり、最期の地には実方の墓が建てられている。 『後拾遺和歌集』などで円融院の葬送の歌が、藤原朝光が詠んだことになっているのは、こうしたことに理由があるのかも。 |
陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 入内雀・実方雀~雀となって都に現れた藤原実方~ |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|