|
藤原実方は、宮中で藤原行成の冠を投げ捨てたことが原因で一条天皇の怒りにあって陸奥国へ左遷されたという貴族。 紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とも言われ、清少納言と交際していたともいわれる。 995年(長徳元年)9月27日、陸奥国へ下向するため都を発った実方は、3年後の998年(長徳4年)12月13日、陸奥国で死去。 原因は、佐具叡神社を通る際に下馬しなかったため、神罰によって落馬して亡くなったのだと伝えられている。 都に未練を残したまま亡くなった実方は、死後、雀となって都に戻ったという伝承がある。 |
陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 |
雀塚は藤原実方の供養塔。 勧学院の観智上人の夢の中に雀が現れて、実方だと名乗り、自分の為に読経をしてほしいと頼んだのだという。 翌朝、その雀が死骸が見つかり、観智上人は雀塚を建てて実方を供養したのだとか。 勧学院に建てられた実方の雀塚は、勧学院を前身とする更雀寺に移されている。 |
入内雀・実方雀~雀となって都に現れた藤原実方~ |
多賀城には陸奥国府や鎮守府が置かれ、陸奥守となった藤原実方もここに赴任。 |
伝承によると・・・ 陸奥国に左遷された藤原実方は、許されても都へは帰らず、歌枕として知られる「阿古耶の松」の所在を尋ね歩いていたのだとか。 そして、鹽竈神社で出会った白髪の老人に所在を教えられて、さっそく駆け付けようとしたが、佐具叡神社の前で落馬してしまったのだという。 実方は、中古三十六歌仙の一人。 一条天皇から「歌枕を見て参れ」と言われていたらしい |
墓の西側が実方に神罰を下した佐具叡神社の跡。 都の一条の北に鎮座する出雲路道祖神の娘(女神)が祀られていたのだという。 佐具叡神社は、1908年(明治41年)に佐倍乃神社に合祀された。 |
佐倍乃神社は、道祖神社と呼ばれてきた古社。 |
都の一条の北に鎮座する出雲路道祖神は幸神社のことらしい。 |
多くの女性との交際があったといわれる実方。 伊吹山を詠んだ歌が似ていることから、清少納言とも交際していたといもいわれる。 伊吹山とは、滋賀県の最高峰の伊吹山といわれるが、栃木県の伊吹山のこととする説もある。 |
清少納言の歌~誰が伊吹の里に行くなどと言ったの?~ 藤原実方の歌~伊吹山のさしも草のように燃える思い~ 藤原実方と清少納言~恋人だった?結婚していた?~ |
清少納言は、藤原実方が越前に下向する際に一首詠んでいる。 |
清少納言の歌~藤原実方が陸奥国へ下向する際の歌~ |
藤原隆家は、陸奥守として東国へ下ることとなった実方に送別の歌を贈っている。 |
藤原実方の歌~藤原隆家の送別の歌と実方の返歌~ |
陸奥に行けば「はばかること」から解放されると期待していた実方だが、東国にも「はばかりの関」があった・・・ |
藤原実方の歌~はばかりの関:陸奥守として東国へ下ったときの歌~ |
1186年(文治2年)、東大寺再建に必要な砂金を勧進するため、平泉へ向かう途中の西行は、実方の墓に立ち寄って 「朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 枯野の薄すすき 形見にぞ見る」 と詠んだ。 この年の8月15日、西行は鎌倉の鶴岡八幡宮で源頼朝と出会い、頼朝に弓馬について語っている。 そして、頼朝は翌年の鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬を奉納している。 |
西行の歌によって実方の墓は「かたみのすすき」と呼ばれたらしい。 |
「笠島は いづこ五月の ぬかり道」 1689年(元禄2年)5月4日、松尾芭蕉は門人の曽良とともに「かたみのすすき」(実方の墓)へと向かうが、雨が降って道が悪く、旅の疲れもあったため断念したのだという。 その後、芭蕉も西行と同じく平泉へと向かい、5月13日には源義経が自刃した衣川館跡や中尊寺を訪れている。 |
西行歌碑 (中尊寺) |
芭蕉句碑 (高館義経堂) |
君待橋は、1180年(治承4年)、鎌倉入りを目指す源頼朝を千葉常胤が出迎えた橋。 実方も陸奥国へ下向する際に通って 「寒川や 袖師ヶ浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にぞ知らるる」 と詠んだのだとか。 |
上賀茂神社の末社橋本神社には実方が合祀されているらしい。 『徒然草』によると、死後、その霊が御手洗川に映ったのだとか。 |
陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 入内雀・実方雀~雀となって都に現れた藤原実方~ |
宮城県名取市愛島塩手字北野42 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|