陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 |
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995年(長徳元年)正月、藤原実方が藤原行成の冠を投げ捨てた罰で陸奥守に左遷される。 『十訓抄』によると・・・ 藤原行成がまだ四位以下の殿上人であったときのこと。 清涼殿の殿上間に参上した藤原実方が、行成の冠を打ち落として小庭(東南隅の庭)に投げ捨ててしまった。 行成は少しも騒がず、主殿司を呼んで冠を取りに行かせ、もとのように冠をかぶり、守刀から笄(こうがい)を抜き出して鬢の毛を整え、居ずまいを正して・・・ 「どういうことでございましょう。 突然にこれほどの乱暴な仕打ちを受けなければならない理由が思い当たりません。 このような仕打ちは、その理由をお聞きしてから後の事ではないでしょうか」 と実方に語ったのだという。 拍子抜けした実方は逃げてしまうが、それを見ていた一条天皇は、 「行成は素晴らしい者だ。 このように礼儀をわきまえた者であるとは思いもしなかった」 と言って、行成を蔵人頭に任命した。 一方、実方は、中将の官職を取り上げられ、「歌枕を見て参れ」と陸奥守に左遷されたのだとか。 |
『撰集抄』によると・・・ 殿上人たちが花見のために東山に出かけたときのこと。 俄か雨となる中、藤原実方はずぶ濡れになりながら、 「さくらがり雨はふり来ぬおなじくは濡るとも花の陰にやどらん」 と詠んだ。 人々はその風流さを褒めたたえ、藤原斉信によって一条天皇にも伝えられたのだが、それを聞いた藤原行成は、 「歌の趣向としては面白いが、それを実行するのは愚か者だ」 と評価したのだという。 それが冠を投げ捨てる原因となったらしい。 |
藤原実方の歌~東山の花見で詠んだ歌~ |
『撰集抄』と『十訓抄』によると、藤原行成に「愚か」と言われて恨んでいた藤原実方は、行成の冠を投げ捨てたことで陸奥守に左遷されたようだが・・・ 実方に左遷の命が下ったのが995年(長徳元年)正月、実方が蔵人頭に任命されたのは同年の8月で、前任者の源俊賢の推挙があったからなのだといわれる。 行成の『権記』によると、実方は陸奥下向に際して一条天皇から多大な餞別を受け、正四位下に昇叙された事が記されている。 また『中古歌仙三十六人伝』には、「兼陸奥守」とされているので、陸奥守は左近衛中将の兼任だったはず。 交際していたとされる清少納言とのトラブルが原因で左遷されたとする説もあるようだが・・・ 実際は左遷ではなかったのかもしれない(考え難い。)。 参考までに・・・ 藤原隆家は送別の歌を贈り、藤原公任は餞別の馬具を贈っているらしい。 |
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藤原実方が陸奥国へ旅立ったのは、995年(長徳元年)9月27日。 998年(長徳4年)12月13日、任国で死去。 出羽国阿古屋の松からの帰り、佐具叡神社の前を通る際に村人から 「馬から下りて通るように」 と言われたのを無視し、乗馬のまま通ったので神罰が下り、落馬して命を落としたのだと伝えられている。 |
佐具叡神社の跡地には藤原実方の墓が建てられている。 都に未練を残したまま亡くなった実方は、死後、雀となって都に戻ったという伝承がある。 |
雀塚は藤原実方の供養塔。 勧学院の観智上人の夢の中に雀が現れて、実方だと名乗り、自分の為に読経をしてほしいと頼んだのだという。 翌朝、その雀が死骸が見つかり、観智上人は雀塚を建てて実方を供養したのだとか。 勧学院に建てられた実方の雀塚は、勧学院を前身とする更雀寺に移されている。 |
入内雀・実方雀~雀となって都に現れた藤原実方~ 円融院の子日の御遊と円融院葬送の歌~藤原朝光・藤原行成・藤原実方~ |
上賀茂神社の末社橋本神社には実方が合祀されているらしい。 『徒然草』によると、死後、その霊が御手洗川に映ったのだとか。 |
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