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勧学院(かんがくいん)は、821年(弘仁12年)に藤原冬嗣が創設した藤原氏出身の大学寮学生のための寄宿舎。 大学寮の学生は、寮内にあった寄宿舎・直曹(じきそう)に寄宿することが原則だったが・・・ 勧学院は872年(貞観14年)以前に大学別曹として朝廷から公認されていたと考えられている。 当時、大学寮には菅原氏によって直曹の文章院が創設され、文章博士(詩文や歴史を教授した教官)を菅原氏が世襲し、学生に対する菅原氏の支配が強まっていた。 これに反発した各氏族は大学寮の近くに一族のための寄宿舎を設置し、大学別曹と呼ばれていたのだという。 大学別曹として公認されると大学寮に寄宿する学生と同等の資格で授業・試験に出ることができ、藤原氏の大学別曹は大学寮の南にあったため南曹とも呼ばれた。 勧学院は、興福寺や春日大社の管轄も行っていたのだという。 『紫式部日記』によると・・・ 1008年(寛弘5年)9月17日、土御門邸で行われた一条天皇の第二皇子・敦成親王(のちの後一条天皇)の「御産養」では、勧学院の学生たちが行列を作って参上している。 これは「勧学院の歩み」と呼ばれるもので、藤原氏の氏の長者の家に慶事があったときには、勧学院の学生一同が整列して練り歩いて慶事に参列したのだという。 勧学院は、貴族社会の衰微とともに消滅したらしいが、有力寺院が設置した僧侶育成の機関・勧学院の名は、この勧学院に由来しているのだという。 |
大学寮は平安宮の南に置かれていた最高教育機関。 紫式部の『源氏物語』では、光源氏の子・夕霧が入っている。 |
土御門殿(土御門邸)は、藤原道長の邸宅。 1008年(寛弘5年)9月11日、中宮・藤原彰子は土御門殿で敦成親王(後一条天皇)を出産。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ |
御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部 |
9月17日の「御産養」で中宮彰子は参上した勧学院の学生の名簿を見ている。 |
藤原実方は、995年(長徳元年)、藤原行成の冠を投げ捨てたことが原因で一条天皇によって陸奥国へ左遷されたという貴族。 998年(長徳4年)12月13日、実方は陸奥国の佐具叡神社の前を下馬せずに通ったため落馬して死去。 都に帰りたかった実方は、雀となって都に帰ってきたのだという。 そして、勧学院の観智上人の夢の中に雀が現れて、実方だと名乗り、自分の為に読経をしてほしいと頼んだのだという。 翌朝、その雀が死骸が見つかり、観智上人は雀塚を建てて実方を供養したのだとか。 |
勧学院に建てられた実方の雀塚は、勧学院を前身とする更雀寺に移されている。 |
陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 入内雀・実方雀~雀となって都に現れた藤原実方~ |
京都市中京区西ノ京勧学院町 |
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