|
藤原実方(ふじわらのさねかた)は、藤原定時の子。 母は源雅信の娘(源倫子の異母姉)。 誕生年は不詳。 順調に昇進するが、公卿を目前にした995年(長徳元年)に陸奥守に左遷される。 理由は、「一条天皇の前で藤原行成と口論し、行成の冠を奪って投げ捨てたため」という噂もあるが定かではない。 998年(長徳4年)12月、任国で死去。 生前は20人以上の女性と交際があったといわれ、清少納言もその一人なのだという。 陸奥への左遷は、清少納言とのトラブルが原因という説も。 紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとも。 |
陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 円融院の子日の御遊と円融院葬送の歌~藤原朝光・藤原行成・藤原実方~ |
実方は東山の花見で、雨が降る中で濡れながら歌を詠むが、藤原行成に「愚か」と言われたらしい・・・ |
藤原実方の歌~東山の花見で詠んだ歌~ |
藤原隆家は、陸奥守として東国へ下ることとなった実方に送別の歌を贈っている。 |
藤原実方の歌~藤原隆家の送別の歌と実方の返歌~ |
陸奥に行けば「はばかること」から解放されると期待していた実方だが、東国にも「はばかりの関」があった・・・ |
藤原実方の歌~はばかりの関:陸奥守として東国へ下ったときの歌~ |
実方が陸奥守として赴任したのは、陸奥国府や鎮守府が置かれていた多賀城。 |
赴任から3年後の998年(長徳4年)12月13日、佐具叡神社の神罰で死去したと伝えられている。 里人に「下馬して参拝してから通るように」と言われていたにもかかわらず、乗馬のまま通って落馬したのだとか。 佐具叡神社の跡地には藤原実方の墓が建てられている。 都に未練を残したまま亡くなった実方は、死後、雀となって都に戻ったという伝承がある。 |
伝承によると・・・ 陸奥国に左遷された実方は、許されても都へは帰らず、歌枕として知られる「阿古耶の松」の所在を尋ね歩いていたのだとか。 そして、鹽竈神社で出会った白髪の老人に所在を教えられて、さっそく駆け付けようとしたが、佐具叡神社の前で落馬してしまったのだという。 実方は、中古三十六歌仙の一人。 一条天皇から「歌枕を見て参れ」と言われていたらしい |
陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話 |
幸神社 (京都) |
更雀寺 (京都) |
実方が下馬せずに通って命を落とした佐具叡神社に祀られていたのは女神。 都の一条の北に鎮座する出雲路道祖神の娘なのだという。 出雲路道祖神は幸神社のことらしい。 そして、都に帰りたかった実方は、死後、雀となって都に戻り、勧学院に葬られたのだという。 勧学院を前身とする更雀寺には雀塚がある。 |
入内雀・実方雀~雀となって都に現れた藤原実方~ |
実方と清少納言の交際について、『枕草子』では語られていないが・・・ 993年(正暦4年)11月に藤原定子が開いた五節では魅力的な実方を伝えている。 実方は、舞姫の介添え役だった年若い女房の衣服の紐がほどけていたのを、さっと近寄って結び直し、 「あしびきの山井の水は凍れるをいかなる紐のとくるなるらむ」 と詠んだのだとか。 『実方朝臣集』には二人の贈答歌が・・・ 「忘れずよまた忘れずよ瓦屋の下たくけぶり下むせびつつ」 実方は、中宮に仕える元輔の娘のところに人知れず通っていたが、しばらく音信が途絶えてしまったので、元輔の娘から「忘れてしまったのね」と言われて詠んだのだという。 中宮は一条天皇の中宮・藤原定子、元輔とは清少納言の父・清原元輔のことと考えられている。 その返歌は、 「葦の屋の下たくけぶりつれなくて絶えざりけるも何によりてぞ」 『拾遺和歌集』には、 「時のまも心はそらになるものを いかですぐしゝ昔なるらむ」 という実方の歌が載せられている。 この歌の詞書(前書き)は、「元輔が婿になりて、あしたに」 元輔の婿ということは、実方と清少納言は結婚していたことになるが、この元輔の娘とは清少納言のことなのだろうか? |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ |
清少納言の歌~誰が伊吹の里に行くなどと言ったの?~ 藤原実方の歌~伊吹山のさしも草のように燃える思い~ |
清少納言は、藤原実方が越前に下向する際に一首詠んでいる。 |
清少納言の歌~藤原実方が陸奥国へ下向する際の歌~ |
上賀茂神社の末社橋本神社には実方が合祀されている。 『徒然草』によると、死後、その霊が御手洗川に映ったのだとか。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|